ジュリア・クラウチのレガシーを引き継ぐ、基本に忠実なドメスティック・ノワールの世界――ハナ・ベッカーマン著『The Forgetting』

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2013年に”ドメスティック・ノワール”というサブジャンルの呼称を生み出したイギリスの小説家ジュリア・クラウチは、2011年のデビュー作『Cuckoo』から現在までに合作を含め10本の長編を発表し、「ドメスティック・ノワールの女王」とも呼ばれている。クラウチのホームページではこのサブジャンルが以下のように説明されている。ドメスティック・ノワールは主に家庭や職場を舞台にし、主に女性の経験に焦点を当て、人間関係を軸に据え、家庭という空間はそこに住む人々にとって困難で、時に危険な場所にもなりうるという、広くフェミニズム的な視点に基づいている。

そして現在では、クラウチ以後に登場してきた作家が、「ドメスティック・ノワールの新女王」と呼ばれることもある。ここで取り上げるハナ・ベッカーマンも一部でそう呼ばれることがあるようだ。『The Forgetting』は彼女にとって4作目の長編になる。本作では、ふたつの物語が並行してつづられ、それらが終盤で交差することになる。

『The Forgetting』ハナ・ベッカーマン

『The Forgetting』ハナ・ベッカーマン著

一方の物語の舞台はイギリス西部の港湾都市ブリストル。主人公は、地元の環境シンクタンクで働くリヴィ(こちらの物語については少し詳しく書いておく)。彼女の人生はこの2年間で大きく変わった。以前、彼女には、つき合って5年になるトムという彼氏がいて、いずれ結婚し、子どもをつくり、ともに年を重ねていくものと思っていた。ところが2年前、そのトムが突然、ふたりで仕事をやめ、海外を旅しようといいだした。リヴィはキャリアを手放す気はなく、トムはひとりで旅立った。その年のはじめに37歳になったリヴィは、もう結婚も出産も夢に終わるのではないかという不安を抱えていた。

その3か月後、環境シンクタンクが主催する会議に出席したリヴィは、そこで構造エンジニアとして働くドミニクに出会い、交際をはじめた。ドミニクは彼女の話に熱心に耳を傾け、対等な会話ができた。彼が10歳年上であることも気にならなかった。そして交際から3か月で予定外の妊娠が判明する。パニックになったリヴィはすぐさま姉のビーに打ち明けた。ビーは、まだよく知らない相手とこれから何年も共同で子育てしていくのには大きなリスクがあるので、よく考えるように忠告する。その後、リヴィがドミニクに妊娠を告げると、彼は即座に彼女にプロポーズし、彼女は結婚に踏み切った。それから1年、リヴィとドミニクは6か月になる息子レオと3人で暮らしている。

ところが、その結婚生活がぎくしゃくしだす。ドミニクはシェフィールドに行き、4か月の契約で郊外型スーパーの建設に携わることになった。ドミニクが出発して間もなく、彼の母親だという女性イモジェンが訪ねてきて、リヴィを動揺させる。リヴィは彼の両親に会ったことがなかった。ドミニクからは、子どものときに父親から暴力をふるわれ、母親も助けてくれなかったため、大学に入って家を離れたときに、もう戻らないと決め、以来30年近く両親と会っていないと聞かされていた。イモジェンによれば、父親が病気でもう長くないという。この訪問で孫の存在を知った彼女は、その後もリヴィにつきまとうようになる。

リヴィは両親や姉の協力を得て産休を早く切り上げ、ドミニクの契約が終わり次第、環境シンクタンクに復帰するための準備を進めていた。ところが、ドミニクが携わっていたプロジェクトの期間が延長されることになり、彼女の復帰にしわ寄せがくる。ドミニクは、次第に自分の事情を優先するようになり、そればかりか彼女の生活にも干渉しだした。夫婦の共同口座から勝手に大金をおろし、家計を管理するというのだ。

もう一方の物語の舞台はロンドンで、主人公のアンナが病院のベッドで目覚めるところからはじまる。医師によれば、彼女は交通事故による頭部外傷で一時的に記憶喪失に陥っているという。医師といっしょにいる男性が彼女の夫で、スティーヴンと名乗るが、まったく記憶になかった。スティーヴンの説明によれば、彼とアンナは大学卒業後ほどなくして出会い、その6年後に結婚し、以来12年間、幸福な結婚生活を送ってきたという。彼は大学の講師だった。

アンナは医師の勧めで、スティーヴンに案内されて自宅に戻ることになる。しかし、その家もまったく見覚えがなく、とても自分が住んでいたとは思えなかった。彼女は、後述するある出来事がきっかけで、自分の生活に疑問を抱くようになる。梯子が危ないので登らないようにといわれたロフトには鍵がかけられていた。長く住んでいるはずなのに、未整理の荷物が積んである。水漏れの修理にきた業者と話して、持ち家だと聞かされていた家が賃貸であることがわかる。セラピストからの電話で、スティーヴンが勝手に予約をキャンセルしていたことが明らかになる。

このロンドンを舞台にしたアンナの物語は、ドメスティック・ノワールの代表作であるSJ・ワトソンの『わたしが眠りにつく前に』(2011)を思い出させることだろう。

『わたしが眠りにつく前に』SJ・ワトソン

『わたしが眠りにつく前に』SJ・ワトソン著

この物語の語り手であるクリスティーン・ルーカスは、特殊な記憶障害を患っている。毎朝、目覚めるたびに前日までの記憶が失われてしまう。そこがどこなのかも、自分が誰なのかもわからず、同じベッドに知らない男がいるのに気づき狼狽する。年齢については漠然と20代という認識があるため、鏡に映った47歳の自分の姿に愕然とする。激しく動揺する彼女は、夫だという男ベンになだめられ、状況を把握していく。20代のときに事故に遭い、それ以来、夫に頼る生活を送っているらしい。しかし実は彼女は3週間ほど前から夫に内緒で神経心理学者であるナッシュの診断を受け、彼の提案にしたがって日誌をつけ、ナッシュの連絡でその存在を思い出し、そこに自分が確信をもてる物語の断片を積み重ねていた。

本作のアンナは、クリスティーンのように特殊な記憶障害を患っているわけではなく、病院で意識を取り戻してからの記憶は積み重ねているが、物語の展開は非常によく似ている。アンナはスティーヴンが仕事で家を空けているあいだに外出し、近くの公園で息子を遊ばせる母親ザヒラと出会い、親しくなる。そのザヒラが、ナッシュのような役割を果たすともいえる。ただし、それがブリストルのリヴィの物語と並行してつづられていくと、アンナの物語が別の意味をもつことになる。

リヴィとアンナの物語は男女の関係をめぐって正反対の方向へと進んでいく。リヴィはドミニクと対等な関係を築けると思っているが、次第にガスライティングによってコントロールされ、確証バイアスに陥っていく。一方、記憶喪失になったアンナは、スティーヴンを頼って生活するしかないが、次第に疑問を抱くようになり、呪縛を解かれていく。ふたつの物語にはそれぞれ、そうした男女の力関係の変化に深く関わる人物が登場する。

リヴィの場合は彼女の姉のビーだ。リヴィはこれまでビーを信頼してきたが、そのビーはリヴィからドミニクを紹介された当初から、彼に違和感をおぼえていた。ビーは、仕事や育児をめぐってリヴィがドミニクに振り回されていることに気づき、忠告するが、ドミニクはリヴィにさり気なく夫か姉かの二者択一を迫り、姉妹を引き離していく。リヴィの様子がおかしいと感じたビーは、ドミニクの以前の職場を調べ、彼の以前の恋人から話を聞き、どんな事情で破局したのかをリヴィに伝える。だが、リヴィは、話に耳を傾けるものの、真実から目を背け、ビーを避けるようになる。リヴィに相談することなく勝手に話を進めるドミニクは、以前のリヴィの彼氏トムと同じような要求をしてくるが、自分を見失いかけた彼女はそれを拒めず、ずるずると引きずられていく。

アンナの場合は、先ほど少し触れた、彼女が公園で出会う母親ザヒラだ。スティーヴンに頼るしかなく、孤立したアンナは、ザヒラと話をするまで生活に疑問を抱くことすらなかった。ザヒラから、結婚12年で子どもがいないのはどうしてなのかとか、なぜ自分の携帯をもっていないのかと尋ねられてはじめて、疑問に思って当たり前のことに気づき、賃貸のことやセラピストのことなど、次々に疑問がわき、少しずつ真実に近づいていく。つまり、確証バイアスに陥りかけたリヴィとは対照的に、ザヒラの言葉に耳を傾け、彼女の協力を受け入れることで呪縛を解かれていく。そんなふたつの物語がどう交差するのかは、もう想像がつくかもしれない。

本作の終盤では、物語のなかに「イギリスでは毎週2人の女性が、パートナーや元パートナーに殺されている。殺害された女性の半数以上が、過去に交際していた相手に殺されている」というような情報が挿入されている。そんなところにもドメスティック・ノワールならではの視点を感じる。

《参照/引用文献》
● 『The Forgetting』Hannah Beckerman (Lake Union Publishing, 2023)
● 『わたしが眠りにつく前に』SJ・ワトソン 棚橋志行訳(ヴィレッジブックス、2012年)




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● 『The Forgetting』Hannah Beckerman (Lake Union Publishing, 2023)
● 『わたしが眠りにつく前に』SJ・ワトソン 棚橋志行訳(ヴィレッジブックス、2012年)