アメリカの科学哲学者リー・マッキンタイアが2021年に発表した『エビデンスを嫌う人たち 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』は、科学否定の問題を題材にしている。この題材は、マッキンタイアが2018年に発表した『ポストトゥルース』における検証から導き出されたものだ。
「ここ何年ものあいだ、真実は攻撃にさらされ続けてきた。少なくともアメリカではそうだった。もはや国民は、事実に耳を傾けるのをやめてしまったように見える。証拠(エビデンス)よりも感情が優先され、イデオロギーが台頭した。私はかつて一冊の本を書き、そのなかで、現代人は「ポスト真実(トゥルース)」の時代に生きているのではないかと問いかけ、そうした状況が後世にもたらす影響について検討した。ポスト真実の時代とは、客観的な事実、あるいは現実でさえ、議論の争点になる時代のことだ。そこで私が見つけたのは、今日の現実の否定のルーツが、科学の否定の問題に直接さかのぼれるということだった」
さらに、本書がトランプ政権の時代に執筆されていたことが、(特に気候変動における)科学否定を強く意識する要因になっている。
「現在のワシントンの政治的混乱は、当分のあいだ収まることはないだろう。一方で、その混乱が科学に与えた副次的な影響は、いまやのっぴきならない事態を引き起こしている。国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が最近公表した報告書によれば、私たちはすでに危うい分岐点に立たされているという。地球温暖化の影響は予想よりもずっと早く現れており、パリ協定が定めた目標に届かない国が早くも続出している。(中略)にもかかわらず、これを書いている時点では、ホワイトハウスの気候変動否定論者であり、我が国の最高責任者も兼ねる人物は、気候学者には『政治的意図』があり、もし気候変動が起きているとしても、それはおそらく『人類のせい』ではなく、『元に戻ることだって大いにありうる』という幻想を喧伝し続けている。残念ながら、その意見に賛同する人間は何百万人もいる」
本書で紹介されている実験や論文によれば、こうした現状に対する最悪の選択肢は科学否定論者に反論をしないことだという。そのまま放置すれば、誤った情報がどんどん広がってしまうということだ。そこでどのように説得できるのかが検証されていく。科学否定論者と信頼関係を構築し、共感や敬意をもって対話するという結論は決して真新しいものではないが、本書ではむしろそこに至るさまざまなディテールが興味深い。
本書の気候変動に関わる部分を読んでいて、筆者がまず思い出したのは、以前、記事で取り上げたアメリカの女性作家バーバラ・キングソルヴァーの小説『Flight Behavior』(2012)のことだ。この小説は、気候変動を扱っていて、科学否定の問題も盛り込まれているが、マッキンタイアの『エビデンスを嫌う人たち』を読むと、科学否定の問題がより鮮明になる。
物語の詳細については以前の記事(「アミタヴ・ゴーシュが評価するバーバラ・キングソルヴァーの長編『Flight Behavior』、気候変動で突如出現した蝶の大群が、田舎町で孤立する貧しい主婦の世界を劇的に変えていく」)を参照していただければと思うが、簡単に振り返っておく。
舞台はテネシー州東部、アパラチア地方の架空の田舎町フェザータウン。主人公は、義理の両親が所有する経営難の農場に、夫とふたりの子供と暮らす29歳のデラロビア・ターンボウ。ある事情で慌ただしく結婚してから10年以上、単調で窮屈な生活を送ってきた彼女は、そんな生活から逃げ出したい一心で不倫を決意し、男と密会するために人がめったに来ない裏山を登っていくが、その途中の森で信じがたい光景を目にする。それは、“渡り”をする蝶であるオオカバマダラの大群だった。
奇跡を予見した(と思われた)デラロビアは、蝶とともに新聞やネットで注目を集め、その世界が大きく変化していくことになる。なかでも彼女に大きな影響を及ぼすのが、オオカバマダラを専門に研究する昆虫学者オヴィッド・バイロンの存在だ。彼は、ターンボウ家の農場にある納屋の隣にとめたキャンピングカーに住み込み、大学の研究チームを呼び寄せて、オオカバマダラの調査・研究を進めていく。デラロビアは、そのオヴィッドと話をすることで、本来ならメキシコに渡って越冬するはずのオオカバマダラが、気候変動によってなにかが狂い、フェザータウンの森に出現したことを知る。
この物語では、そんな設定によって、デラロビアや田舎町の住人、あるいは取材にやってくるメディアの人間が、科学や科学者をどのように見ているのかが明らかにされていく。だが、そこに話を進める前に、キングソルヴァーがなぜ気候変動を題材にし、このような設定にしたのかを考えてみたい。マッキンタイアの『エビデンスを嫌う人たち』には、そのヒントがある。キングソルヴァーが2012年にこの小説を発表するまでの数年の間にアメリカにおける気候変動に対する認識は大きく変化していた。
『エビデンスを嫌う人たち』によれば、気候変動が一般市民の耳目を集め始めた1980年代後半には状況は違っていた。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、温室効果に立ち向かうことを宣言し、そのひとつの成果が、記事の冒頭の引用にも出てきたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)だった。そして、2006年には、アル・ゴアの講演活動の成果である映画と書籍の『不都合な真実』が注目を集め、アル・ゴア(とIPCC)がノーベル平和賞を受賞した。
マッキンタイアは、そんな流れがいつ、どう変化したのかを、ジェイン・メイヤーの『ダーク・マネー』やクリストファー・レナードの『Kochland: The Secret History of Koch Industries and Corporate Power in America』を参照して説明している。『ダーク・マネー』で取り上げられた政治学者シーダ・スコチポルによれば、気候変動を取り巻く様相が変化したのは2007年、アル・ゴアによって気候変動に対する関心が高まりを見せてきた時期にあたる。
「この頃から、気候変動の否定を掲げる勢力による反撃が活発になった。ラジオ、テレビ、書籍、議会での証言などを通じて、懐疑をあおる広報活動がいっせいに繰り広げられたのだ。スコチポルは、こうした動きを通じて、気候変動の否定意見がアメリカ国民の三〇~四〇パーセントに広まったと推定している」
2012年に発表されたキングソルヴァーの『Flight Behavior』は、そんな変化と無関係ではないだろう。デラロビアが属する田舎町のコミュニティでは、大半が地球温暖化を信じていない。デラロビアも最初はそのひとりだったが、昆虫学者のオヴィッドと接するうちに、それを信じるようになる。そんな彼女が夫のカブに、蝶の出現は気候変動、地球温暖化によるものだとオヴィッドが主張していることを伝えると、夫は鼻を鳴らし、足元の霜を蹴り上げて、「アル・ゴアはこれでパンをトーストすればいいさ」と言う。それは、彼がよく聞いているラジオ番組の司会者、ジョニー・ミジョンが冬の嵐がくるたびに口にする決まり文句だった。このコミュニティではおそらく、そんなふうにしてアル・ゴアの活動をからかうことが普通になっている。
デラロビアやカブは、それぞれに自分たちが田舎者で、貧しいことにコンプレックスを感じていて、それが科学者に対する認識に影響を及ぼしているようにも見える。マッキンタイアは、科学否定の五つの類型のひとつとして、「偽物の専門家への依存(本物の専門家への誹謗中傷)」を挙げ、以下のように書いている。
「考えてみてほしい。気候変動は真実だとする科学者がリベラルだったり、大学で専門教育を受けていたり、研究助成金を受けていたりするのがわかったとしたら、日頃からそうした属性に反感をもっている人たちはどう思うだろう。その科学者の動機に不信感を抱き、主張を疑う人も出てくるのではないか?」
キングソルヴァーは、そんな記述を連想させるような人間の感情を巧みに描き出している。デラロビアは偏狭な感情から解放され、オヴィッドの助手になるが、他の住人たちにしてみれば、オヴィッドはおせっかいなよそ者である。
さらに、オオカバマダラの取材にやってくるTV番組の女性レポーター、ティナ・ウルトナーとデラロビアやオヴィッドとのやりとりも見逃せない。ティナが取材カメラマンとともにはじめて田舎町に現われ、デラロビアにインタビューを申し込んだとき、彼女はティナに蝶のことを説明できる専門家がいることを伝えるが、ティナは興味を示さず、蝶が生息する現場に行って、デラロビアに個人的な話をさせる。そして、やり直しになったインタビュー映像を勝手に編集し、デラロビアが自殺するつもりで山に入ったものの、奇跡のような光景を目にしてそれを思いとどまったというストーリーをでっち上げ、放送してしまう。
ティナは、6週間後に続報をつくるために再びデラロビアを訪ねてくるが、前の取材に懲りた彼女は、ティナをオヴィッドの研究室に案内する。そのティナとオヴィッドのやりとりに話を進める前に、マッキンタイアが『エビデンスを嫌う人たち』で言及している「科学者と世間を分かつ溝」のことを頭に入れておくべきだろう。
マッキンタイアはまず複数の研究や論文を取り上げて、科学者の97パーセントが、気候変動が実際に起きていて、人間の活動がその主な原因になっていると考えていること、つまり、気候変動の真実性については、事実上、科学コミュニティに争いは生じていないことを確認したうえで、以下のように書いている。
「科学者が実際に信じていることと、世間が思う『科学者が信じていること』の齟齬は大きい。世間の人々は、気候変動が実際に起きているかどうかを知らないだけでなく、それが真実で、しかもその責任の大半は人間にあると科学者が『同意している』ことも知らないのだ。この状況は、企業と政治家の利益のために作られた偽情報キャンペーンのたまものであり、こうして世間は間違った方向へと誘導されることになった」
マッキンタイアが取り上げている論文によれば、「最新のIPCC報告書について質問を受けた共和党議員たちは、『気候科学者は地球温暖化の原因が人間か否かについてまだ議論を続けている』という誤ったメッセージを一貫して発し」、「気候の専門家の九〇パーセント以上が意見の一致を見ていると知っているのは、アメリカ人のおよそ一五パーセントにすぎない」という。
気候変動について科学的論争はほぼ存在せず、実際に存在しているのは、科学的論争に見せかけられた政治的論争ということになる。キングソルヴァーの『Flight Behavior』でも、昆虫学者オヴィッドと女性レポーター、ティナの間でその図式が再現される。
オヴィッドが、オオカバマダラが田舎町に出現した原因について、地球温暖化を示唆すると、ティナは、それが起こっているのかどうか、人間のせいなのかどうかについて科学者たちの意見は一致していないのではと反論する。オヴィッドは、御用学者を除けば、いまではもっとも頑固な気候科学者ですら同意していると答える。それでも懐疑をあおる発言を繰り返すティナに対し、オヴィッドは、Advancement of Sound Scienceという忌まわしいPR会社が裏で糸を引いているのがわからないのか、と厳しく詰め寄る。そのAdvancement of Sound Scienceについてはほとんど説明がないが、実在していて、受動喫煙による健康被害に関する不確実性を作り出すために、1993 年にタバコ会社フィリップモリスによって秘密裏に設立されたロビー団体/危機管理機関で、地球温暖化や気候科学に関する不確実性を作り出す役割も果たしているようだ。
このようにマッキンタイアの『エビデンスを嫌う人たち』と照らし合わせてみると、キングソルヴァーが2007年あたりを分岐点とする気候変動に対するアメリカの変化に強い関心を持ち、科学否定の問題を掘り下げているのかがよくわかる。
《参照/引用文献》
● 『エビデンスを嫌う人たち 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』リー・マッキンタイア著、西尾義人訳(国書刊行会、2024年)
● 『ポストトゥルース』リー・マッキンタイア、大橋冠太郎監訳、居村匠・大崎智史・西橋卓也訳(人文書院、2020年)
● 『Flight Behavior』Barbara Kingsolver (Harper Perennial, 2012)
《関連リンク》
● 「アミタヴ・ゴーシュが評価するバーバラ・キングソルヴァーの長編『Flight Behavior』、気候変動で突如出現した蝶の大群が、田舎町で孤立する貧しい主婦の世界を劇的に変えていく」
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● 『エビデンスを嫌う人たち 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』リー・マッキンタイア著、西尾義人訳(国書刊行会、2024年)
● 『ポストトゥルース』リー・マッキンタイア、大橋冠太郎監訳、居村匠・大崎智史・西橋卓也訳(人文書院、2020年)
● 『Flight Behavior』 Barbara Kingsolver (Harper Perennial, 2012)