閉鎖的なママ友のコミュニティと男性優位の法曹界で苦闘を強いられるシングルマザーのバリスタ(法廷弁護士)――ハリエット・タイス著『嘘は校舎のいたるところに』

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ハリエット・タイスは1972年生まれ。エディンバラで育ち、オックスフォード大学で英文学を専攻したあと、ロンドン大学シティ校(旧シティ大学)で法学を専攻した。ほぼ10年にわたってロンドンで刑事専門のバリスタ(法廷弁護士)として活動し、そののちイースト・アングリア大学の創作学科で犯罪小説の書き方を学び、学位を取得した。2019年に発表した『紅いオレンジ』で長編デビュー。

デビュー作の『紅いオレンジ』は以前の記事で取りあげた(「ほんのわずかな時間ではあってもヒロインが独力で”青ひげ”と対峙することが意味を持つドメスティック・ノワール――ハリエット・タイス著『紅いオレンジ』」)。今回は2020年発表の二作目『噓は校舎のいたるところに』について。デビュー作の記事でも注目したが、ハリエット・タイスが”ドメスティック・ノワール”について書いた長文のテキスト「Harriet Tyce: Domestic Noir/Cultural Anxiety」を読むと、彼女がドメスティック・ノワールの作品群を体系的におさえていることがよくわかる。実際、タイスの二作品は、ドメスティック・ノワールの代表作となんらかの接点を感じさせるところがある。『紅いオレンジ』は、アルコールの問題やガスライティングを盛り込んでいるところが、ポーラ・ホーキンズの『ガール・オン・ザ・トレイン』を、『噓は校舎のいたるところに』は、ママ友同士の複雑な関係やシングルマザーの立場、いじめの問題などが、リアーン・モリアーティの『ささやかで大きな噓』を想起させる。もちろんこれはあくまで接点であって、タイスの物語の構成はそれらとは全然違う。

『紅いオレンジ』と『噓は校舎のいたるところに』の構成には明確な共通点がある。主人公はバリスタで、家庭の問題とバリスタとしての活動が並行して描かれるだけでなく、次第に結びつき、相互に影響を及ぼしていく。

『紅いオレンジ』の場合、ポイントになるのは夫婦の関係だ。バリスタの主人公アリソンは、心理療法士の夫カールと娘のマチルダと暮らし、バリスタとして主婦のマデリーンが会社経営者の夫エドウィンを刺殺した事案を扱っている。そんなふた組の夫婦の関係からは次第に青ひげ的な図式が浮かび上がり、アリソンは家庭でもバリスタとしても、ある一線を越えることになる。

これに対して『噓は校舎のいたるところに』の場合は、親子の関係が、家庭や学校、法廷を背景に対置され、結びつき、相互に影響を及ぼす。

『噓は校舎のいたるところに』ハリエット・タイス

『噓は校舎のいたるところに』ハリエット・タイス著

本書における主人公セイディの立場は複雑だ。物語のはじまりにおいては、彼女はバリスタですらない。かつて彼女はバリスタとして着実にキャリアを積んでいたが、アンドリューと結婚し、娘のロビンが生まれてアメリカに移住し、バリスタをやめていた。しかし2年ほど前からなぜかアンドリューがセイディと距離を置くようになり、彼女は突き放されるように娘とともにイギリスに戻ってきた。だが、その母国でも、クリアしなければならない問題があった。セイディの母リディアの遺言だ。生前のリディアは、キャリアより家族を選んだ娘を許さず、厄介な遺言をのこした。そこからも、本書の核となる「親子の関係」が浮かび上がってくる。

「ロビンをアシェイムズ校に通わせることで、何もかも支配したがる母親の遺産を相続する条件が満たされ――ロビンがアシェイムズに通わなければ、わたしはこの家に住むことも、母の資産からわずかな生活費を得ることも許されない――結婚生活から逃れてきたわたしは、それで生計を立てられるようになった」

そんな事情でセイディは、嫌っていた母校と再び関わることになり、ママ友のコミュニティのなかで権力争いに巻き込まれ、ロビンはいじめに遭い、ついにはロビンの失踪にまでエスカレートしていく。しかし本書の舞台は学校と家庭だけではない。セイディは、ブランクを乗り越えて刑事専門のバリスタとしての活動を再開しようとし、そんな彼女の視点から法曹界が掘り下げられる。彼女がバリスタに復帰することは、彼女の母親との因縁にも関わってくる。セイディはその因縁を、ロビンに以下のように説明している。

「『おばあちゃんはあまり幸せな人じゃなかったの』慎重に言葉を選んで言う。『ほんとうは法廷弁護士(バリスタ)になりたかったんだけど、結婚してわたしという子どもができてしまって。そのことであの人はわたしを決して許さなかったんだと思う。自分のキャリアをあきらめなくてはならなかったから――まあ、そういうこと。だからかわりにわたしにはどうしても法廷弁護士になってほしかった。勅選弁護士に、そのあとは裁判官になるまでキャリアをまっとうしてほしいと思っていた。母親である自分のためにそうしろと。でもわたしはあなたのパパと出会い、結婚すると決めて、そのあとあなたが生まれてアメリカに移住し、バリスタとしての仕事をやめてしまった』」

しかし復帰は容易ではない。それはどうやらブランクのせいだけではなさそうだ。セイディは、自分にできる仕事はないかとかつて働いていた共同事務所に向かうが、その途中で、アンドリューとつきあいはじめたころの楽しい思い出とともに、ある出来事を思い出す。

「幸せな夜で、いまとなってはいい思い出だ。ふいにその数カ月前の暗い夜の記憶がよみがえる。あのころ事務所には若い女性研修生を自由にさわってもいい対象だと思いこんでいる年上のバリスタがいた。わたしはそいつを蹴りつけて激しく抵抗し、やっとのことで身の自由を確保したことがあった。その”事件”が起きた階段の左側にあたる場所で立ちどまり、スカートで両手を拭く。ほぼ20年前の出来事だが、いまでも記憶は生々しい」

その後、共同事務所を訪れたセイディは、久しぶりに対面した男性のバリスタから冷たくあしらわれる。その場面には男性優位の空気が漂っている。そんなセイディに助け舟を出すのが、彼女の親友でソリシタ(事務弁護士)のゾーイだ。以下がそのゾーイとセイディのやりとりだ。

「『(前略)ロンドン中央部にある学校で起きたグルーミング事件、つまり性的行為を目的として教師が生徒に接触を図った事件で、もうすぐ公判がはじまる。教師は男性で、生徒は女子。男性教師は裁判官の息子で、裁判費用は親が払っている。バーバラ・カーライルがこの案件を担当する。あの勅選弁護士を覚えてる?』
『共同事務所に行ったときに彼女に会った。こっちは顔を伏せていたけど』」

セイディは共同事務所で、男性のバリスタから冷たくあしらわれていたときにバーバラが通りかかり、少しだけ言葉を交わしていた。バーバラは共同事務所に席をおく上位の勅選弁護士(クイーンズ・カウンセル)のひとりで、多大な影響力を誇っている。セイディは、バリスタとしてバーバラを補佐することになるが、先述したセイディの母親が娘に期待していたことを思い出すと、その設定がより興味深く思えてくる。なぜならバーバラは、キャリアを優先して上位の勅選弁護士になり、さらに上を見ているような、セイディの母親の望みどおりの生き方をしている人物であるからだ。

そんなバーバラは、セイディとの最初の打ち合わせで、こんなふうに語る。「(前略)あなたみたいな女性がキャリアを捨てるなんて、わたしにはぜんぜん理解できなかった。あなたはオフィスをかまえている才能豊かな若い女性バリスタのひとりで、刑事法院での公判を次々にまかされていたのに、子どものためにすべてを放りだした。わたしからすれば、なんとももったいない話」

では、バーバラが担当し、セイディが補佐する案件はどんな事件か。フレイヤ・マッキンリーは、学校での態度が荒れ、学習面でも落第の危機にある問題児だった。そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、バーバラのクライアント、20代半ばのフランス語と英語の教師ジェレミー・テイラーで、個別授業によってフレイヤは遅れを取りもどしていく。しかしその先で、訴追側と弁護側の見解が割れる。

訴追側は、ジェレミーが最初から性的関係に至ることを目的として自分を信頼させ、彼女が16歳の誕生日を迎えたあとで目的を達成し、彼のほうから終わらせようとするまで関係がつづいたと主張。一方、弁護側は、ジェレミーがフレイヤに同情し、助けようと努力しただけで、ふたりのあいだには性的な関係も恋愛関係もいっさいなかったと主張している。

そして、そんな裁判においても、親子の関係が重要な位置を占めていく。ジェレミーの両親は、数年前にもめて離婚し、互いに口をきかないが、それぞれに息子を積極的に支援し、父親が弁護費用を負担し、母親が精神的な支えになる。弁護士がクライアントとだけ話をしようとしても、父親か母親のどちらかがかならず打ち合わせに割り込んでくる。彼らはジェレミーを子ども扱いしている。セイディはバリスタとしての活動をとおして、思わぬかたちでそんな関係の内実を目の当たりにし、それが裁判の行方に影響を及ぼすことになる。タイスは、この裁判を巧みに男性優位の法曹界に結びつけている。

ここではあまり触れなかったが、ママ友のコミュニティにも、母親が娘を支配しようとする親子の関係があり、セイディとロビンを巻き込んでいく。つまり、セイディは、自身の過去、裁判、学校という三面で、親が子どもを支配し、歪める関係と対峙しつつ、母親としてロビンとの絆を確認していくことになる。

《参照/引用文献》
● 『噓は校舎のいたるところに』ハリエット・タイス 服部京子訳(早川書房、2022年)




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● 『噓は校舎のいたるところに』ハリエット・タイス 服部京子訳(早川書房、2022年)
● 『紅いオレンジ』ハリエット・タイス 服部京子訳(早川書房、2021年)