2080年代のメルボルン、気候変動で荒廃する現実世界にとどまるか、肉体を捨ててデジタルユートピアの住人になるかの選択――グレース・チャン著『Every Version of You』についてのメモ

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[読みたい本についてのメモ] 昨年(2025)新設されたクライメート・フィクション賞(The Climate Fiction Prize)の今年の候補10作品(ロングリスト)が発表され、そこに入っていたので関心をもった。

著者のグレース・チャンは、スペキュラティブ・フィクション作家で、精神科医でもある。マレーシア生まれで、オーストラリアのブーンウルング族とウルンジェリ族の未割譲地に暮らし、活動しているという。これまで短編小説が、「Clarkesworld」、「Lightspeed」、「Escape Pod」、「Fireside」、「Black Cranes: Tales of Unquiet Women」、「Going Down Swinging’」、 「Aurealis」、「Andromeda Spaceways Magazine」などの媒体に掲載されてきた。『Every Version of You』は彼女の長編デビュー作で、the University of Sydney’s People’s Choice Awardを受賞し、the NSW Premier’s Literary Awards Christina Stead Prizeと The Age Book of the Yearの最終候補、the Stella Prizeとthe Indie Book Awardsのロングリストにノミネートされた。

『Every Version of You』グレース・チャン

『Every Version of You』グレース・チャン著

『Every Version of You』の舞台は、2080年代のオーストラリア、メルボルン。加速する気候変動によって、中心部を流れるヤラ川は干上がり、街は荒廃している。主人公のタオ・イーはマレーシア系/中国系オーストラリア人。タオ・イーとパートナーのナヴィンは、没入型仮想現実「ガイア」のなかでほとんどの時間を過ごしている。彼らはこのデジタルユートピアにログインし、仕事や交流、食事さえもする。そのあいだ、彼らの身体は、狭いアパートに設置されたポッドのなかに浮かんでいる。一方、タオ・イーの母親は常にオフラインで、廃墟となった現実世界にとどまり、病院に通ったり、マレーシアでの以前の生活の思い出に浸ったりしながら、徐々に衰弱していく。

人間の脳をガイアに永久にアップロードする新しい技術が開発されると、タオ・イーは難しい立場に立たされる。人工臓器を移植し、定期的な透析を必要とするナヴィンは、迷うことなく肉体からの離脱を選択する。タオ・イーは、荒廃する現実世界にとどまるか、デジタルユートピアでナヴィンや仲間たちと合流するかの選択を迫られる。

本書のサンプルは、冒頭から第3章の途中まで。第1章は、2087年12月31日午後9時、新年まであと3時間というところからはじまる。タオ・イーとナヴィンは、友人たちが毎年、大晦日にビーチで開くパーティに参加している。仮想現実「ガイア」のなかでは、ビーチもたき火も星空も完璧に見える。だが、タオ・イーは心から楽しむことができない。彼女は最後に本物の星を見たときのことを思い出せない。砂はなんのにおいもしない。彼女はビーチが大好きだったが、これはビーチじゃない。結局、彼女はひとりでログアウトし、狭いアパートに置かれたポッドから身体を起こす。隣のポッドで身体がジェルに浮かんでいるナヴィンは、肌は触れあえても、隔てられた世界にいる。

第2章は8年近く時間をさかのぼった2080年4月。タオ・イーとナヴィンは、あらたに開発された”ニューポッド”の早期導入者となり、かなり重量のあるポッドを、輸送用ドロイドを使ってアパートに運ぶ。その過程で、わずかだが物語の背景が見える。2041年にはアメリカによるメルボルン空爆があり、慰霊碑が建てられている。彼らは、気候変動で完全に干上がり、ゴミが散乱するヤラ川を目にする。タオ・イーは、オーストラリアに移住して2年ほどした13、14歳のころに、その場所を訪れたことを思い出す。そのときには、まだ少なくとも水は流れていた。ナヴィンは5か月前にも手術をしていて、それもあってポッドに期待しているように見える。帰宅したふたりはポッドを設置し、頭に装着するのではなくバスタブのような形状をしていることに戸惑いながらも、ジェルに身体を浸し、すべてが可能になる仮想現実「ガイア」にログインする。

第3章はおそらく途中までだが、ガイアでのタオ・イーの仕事の様子が描かれる。彼女は、オーセンティシティ(真正性)・コンサルタントとして働いている。これは、現実世界における自己とガイアにおける様々にカスタマイズされた自己のバランスが崩れ、アイデンティティが揺らぐ人々をサポートするセラピストのような存在といえばいいか。

同じオーストラリアの作家でも、ロングリストの候補作の一番手として取りあげたロビー・アーノットの『Dusk』とは題材も視点もまったく違っていて面白い。なんとなく、自分を取り巻く情報をカスタマイズして自分が見たいものだけを見る現代の内向き社会の延長線上にある世界のようにも思える。

▼ 単なるプロモーションではなく、ちょっと面白そうなグレース・チャンの対談動画

《参照/引用文献》
● 『Every Version of You』Grace Chan [Kindle Version] (VERVE Books, 2025)




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