モート・ローゼンブラム 『オリーヴ讃歌』 第4章 「アンダルシア、オリーヴの楽園」からのメモ

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今回はモート・ローゼンブラム『オリーヴ讃歌』の第4章のまとめである。そのタイトルは「アンダルシア、オリーヴの楽園」。(※本書が1996年の著作であることは頭に入れておいていただきたい。)

オリーブの故郷を訪ねる旅に出たローゼンブラムが最初に訪れたのは、第3章に書かれているように聖地エルサレムだった。では、彼が次に向かうのはどこか。章のタイトルからスペインだとわかるが、単に次はスペインということではない。その意味するところは、この章に登場するスペインオリーヴ油輸出振興会(ASOLIVA)の会長ファン・ビセンテ・ゴメス・モヤの発言から察することができるだろう。

『オリーヴ賛歌』 モート・ローゼンブラム著

「ゴメスの説明は単純明快である。大市場のアメリカでは、何世代にもわたってオリーヴ油といえばイタリアと思いこんできた。イタリア人はしゃれたデザインが得意で、商売もうまい。半分はレストランと食品業界に売れるが、ゴメスのよると、これらの業界はイタリア系アメリカ人に支配されている。スーパーマーケットが残りをあらかた引き受けるが、仕入係は自分の知っている銘柄を買いつける。
 この基本構造はずっと昔、マフィアの用心棒が有無を言わさず商店に要求を押しつけた時代にできあがったものだ、とゴメスは主張する。今や流通の仕組みははるかに複雑になったが、スペインは相変わらずほとんど参入できない。一九九〇年代にアメリカでオリーヴ油ブームが起きたときも、売れたのはなじみのあるイタリア産だった」

では、実際のところ、スペインとイタリアはオリーブ油をめぐってどんなポジションにあるのか。

「豊作の年には、スペインは六十万トンのオリーヴ油を生産する。二位のイタリアの約一・五倍である。フランスは二千トン程度だろう。イタリアは常にオリーヴ油不足に悩まされており、国外に輸出するブレンドオイルの原料ばかりか、国内販売分も輸入しなくてはならない。IOOCによれば、不足量は年平均十四万トンに達する。これは疑わしい「公式」記録なので、実際はもっと多いだろう。スペインは二十万トンの余剰オイルを輸出にまわしている計算になるが、こうしたオイルの多くは生産地のラベルもつけず、バルクで輸出される。行き先はほとんどイタリアだ」(※IOOC=国際オリーヴオイル協会)

つまり、単に次はスペインではなく、「オリーブ油といえば」といったときに真っ先に連想されるイタリアではなく、スペインに向かうということなのだ。

スペインのアンダルシアに向かったローゼンブラムは、第3章で触れた古代のペリシテ人とあまり変わらない搾油法で、高品質のバエナ産オイルを生産しているヌニェス・デ・プラド兄弟の採油所を訪ねる。この兄弟のオイルへのこだわりはすさまじい。

「ヌニェス・デ・プラドでは、濃い紫から黒に変わったばかりの実だけを計画的に収穫する。熟してはいるがまだ硬い実である。木の下には落ちたばかりで搾油可能な実がたくさんあるが、それには手をつけない」

「生産者の多くは、発酵が始まるのを避けるため、収穫後二、三日以内に搾油するのを自慢するが、偏執的な兄弟は収穫後二時間で早くも不安に駆られる」

すりつぶした果実は、搾るのではなく、「熱(サーモ)フィルター」という機械を使って、油がそれ自体の重みで自然に浸み出した「フロール・デ・アセイテ=油の花」だけを集める。搾ればオリーブ五キロにつき一キロのオイルがとれるが、一キロの「油の花」をとるには十一キロのオリーブが必要になるという。

ローゼンブラムも伝統的な搾油法に愛着を持ち、遠心分離機を使うような近代的な方法に否定的だったから、当然、この兄弟のやり方に感銘を受ける。しかしその後に、意外な記述が出てくる。

「こうした新旧の対立は、このあとオリーヴをめぐる旅で訪れる各地で見られたもので、しかも問題はますます複雑になっていく。この初期の時点では、味の良さと伝統の重みから、私はあくまで旧式派の味方だった」

ということは、これ以後の旅のなかで著者の考え方が変化するらしい。兄弟に歓待された著者は最後に、「ローマ人がやってくるはるか昔からあったという古のオリーヴ畑」を見にいく。その描写は印象深い。

「私はこの高みから、パコ(※兄弟のひとり)の言う『オリーヴの楽園』を見渡した。谷全体が一望の中にあった。地平線に沿って孤を描く低い山並みに抱かれるように、幾重にも丘がうねり、その上をオリーヴの列がどこまでも整然と伸びている。黄昏の光に、ところどころが銀色にきらめく。薔薇色、桃色、コバルトブルーに染まった畑もある。二、三本の道路と点在する集落を除けば、見渡すかぎり豊かなオリーヴ畑が広がっていた」

兄弟の採油所を後にしたローゼンブラムは、オリーブ油を使った料理を芸術の域まで高めたジャン=ピエール・ヴァンデルがオーナーを務めるマドリードのレストラン<エル・オリーボ>で舌鼓を打ち、マドリードに本部を置く国際オリーブオイル協会(IOOC)や創立六十年のスペインオリーヴ油輸出振興会(ASOLIVA)で、オリーブに関する細かい専門知識を吸収し、オリーブ業界について学ぶ。

しかし、最後に著者に強い印象を残すのは、オリーブに関する資料の見事なコレクションがあるASOLIVAの小さな図書館だ。そこで、ミゲル・エレーロ・ガルシアの大著『スペイン文学におけるオリーヴ』を読んだ彼は、スペイン人がオリーヴについて騒ぎ立てる理由を理解する。

「カエサルの軍団が初めてやってきた頃から、オリーヴはスペインの象徴だった。スペイン内乱で難民となった人々は、生きのびるため、薪となるオリーヴの木を切り倒したが、その際、身内を喪ったかのように嘆き悲しんだ。共和国政府軍とフランコ率いる右派国民戦線がアラゴン中心部のベルチテをめぐって戦ったとき、古い採油所とオリーヴ商人の家が破壊された。この廃墟はそのまま残され、戦争の惨禍の記念碑となった。現在、オリーヴの木はスペインの至るところにあり、南はカディスの古い港から、北はガリシア地方の肌寒い丘まで、五百万エーカーを覆っている。オリーヴは二千年にわたり、スペイン人の魂と結びついてきたのである」

《参照/引用文献》
● 『オリーヴ讃歌』モート・ローゼンブラム 市川恵里訳(河出書房新社、2001年)





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