すでに別記事で取り上げているデビッド・クアメンの『スピルオーバー ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』だけでなく、デイビッド・ウォルトナー=テーブズの『人類と感染症、共存の世紀 疫学者が語るペスト、狂犬病から鳥インフル、コロナまで』など、人獣共通感染症(ズーノーシス)を題材にした本を読むと、多くの新しいウイルスがコウモリから出現していることに興味をそそられる。
そこで、『スピルオーバー』などを参照しつつ、コウモリ由来のウイルスを順番に取り上げ、コウモリとヒトの間にどんな接点があり、保有宿主(自然宿主)としてのコウモリにどのように対処しているのかといったことに注目してみることにした。
最初に取り上げるのは、ヘンドラウイルス。事の始まりから現在(※本書執筆時点)に至るまで致命的被害は少なく、発生範囲も狭く局地的で、大して広がったことがないので、比較的、目立たないウイルスに見える。
1994年のオーストラリア、ブリスベン北郊に位置し、競馬場と競馬関係者が多い古い町ヘンドラで、馬の伝染病が発生。調教師であるヴィック・レイルが、ドラマシリーズという名の引退馬の異変に気づき、獣医師のピーター・リードを呼ぶ。リード医師は、ぐったりしたままのドラマシリーズに抗生物質と鎮痛剤を注射して帰宅するが、翌日の早朝、症状が悪化したドラマシリーズは激昂し、何度も倒れて絶命した。
その13日後、引退馬がいた厩舎の馬たちがドミノ倒しのように発症し、数日以内に12頭が死亡。調教師のレイルと厩務員も発病し、レイルは一週間の集中治療の果てに死亡。多臓器不全を起こし、肺にはある種のウイルスが充満していた。厩務員は熱に耐えて生き残る。リード医師は血が混じった泡にまみれて馬を診たにもかかわらず健康なままだった。
死ぬ馬が増えると州政府が動き出し、州内の家畜・野生動物・農業を管轄する第一次産業局(DPI)や保健局などが介入し、DPIの獣医師らが手掛かりを探す作業を開始。死んだ馬の血液と組織のサンプルは、オーストラリア動物衛生研究所(AAHL)に送られた。一連の検査で発見されたのは、AAHLの顕微鏡技師が初めて目にするウイルスだった。
そのウイルスは暫定的にウマモルビリウイルス(EMV)と名付けられたが、レイルの遺体からも同じウイルスが検出されたため、名称が改められ、ウイルスが出現した場所にちなんで「ヘンドラウイルス」と命名された。
では、そのウイルスはこれまでどこに存在し、どのように出現したのか。数年後にヘンドラの町でリード医師に会った著者クアメンは、ドラマシリーズが発病した現場に案内された。その場所の記述は印象深いので、引用しておこう。
「南東に数キロ、ブリスベン川を渡ったところにあるキャノンヒルと呼ばれる一帯だ。かつては町に囲まれた牧草地だったが、今では高速道路M1線を降りると活気ある郊外が広がっている。パドックがあった道路沿いには団地が建ち、昔の面影はほとんどない。だが、一本の道の終点近くに『カリオペ・サーキット』と呼ばれるロータリーがあり、その中央にガジュマルの大木が立っていた。亜熱帯に属するオーストラリア東部の日差しは強烈だ。牝馬はここを日よけにしたのかもしれない。『あれだ』とリード医師はいった。『あの忌々しい木だ』。そこにコウモリの群れがいたのだという」
この記述では、ウイルスの隠れ場所がすぐに突き止められたような印象を与えるかもしれないが、実際には時間がかかった。DPIは、ヘンドラに出現した新しい疫病の生態学的側面を調査する人材を必要としていた。そこに登場するのがヒューム・フィールドという人物だ。クイーンズランド大学で生態学の博士号を目指す彼は、論文用のプロジェクトとして野生化した飼い猫の個体数とその影響に関する研究をしていたが、ヘンドラのアウトブレイクを機会に、ヘンドラウイルスの宿主となっている野生生物を探し始める。つまり、ウイルスハンターになる。
ここでヒューム・フィールドについて字数を割く理由は、以下の動画を見ればわかるだろう。
▼ 「パンデミックについてコウモリが明らかにすること」――ヘンドラウイルスから新型コロナウイルスまで、保有宿主としてのコウモリを追う動画。
フィールドは、ヘンドラウイルスの宿主の調査でウイルスハンターとしての地位を確立し、後に同じくコウモリ由来のニパウイルスの調査にも関わることになる。この動画では、獣医師/疫学者と紹介され、宿主のコウモリについてコメントしている。
そうしたことを踏まえて、フィールドによるヘンドラウイルスの宿主探しを振り返ってみたい。彼にとって手掛かりは、ヘンドラがパラミクソウイルス科に属することと、数年前にクイーンズランド州の別の研究者が齧歯類から新種のパラミクソウイルスを発見していたことだけだった。そこで、パドックに罠を仕掛け、ネズミ、オポッサム、ミミナガバンディクート、爬虫類、両生類、鳥類、野良猫などあらゆる小型・中型の脊椎動物を捕獲して血液を採取し、DPIの研究室に送ったが、ヘンドラウイルスの抗体はなかった。
では、リード医師のコウモリに関する情報はどうなっていたのか。以下のように綴られている。
「例えばコウモリは夜になると大群を成してキャノンヒルのパドックに餌を食べに来るが、昼間はどこか別の場所にあるねぐらに帰って行く。暗い時間帯になると『満天の星のように厚いオオコウモリの群れ』が飛んでいると住民がいうのを、ピーター・リード医師が聞いていた。そのためリード医師はAAHLにコウモリを調べるべきだと提案していたが、どうやら伝わっていなかったらしい」
しかし、ブリスベンの北方1000キロにあるマッカイ近郊でもヘンドラウイルスが出現していたことが後にわかり、方針が変わる。保有宿主は極めて機動性が高く、クイーンズランド沿岸を何百マイルも行き来できるような生物と考えられ、コウモリに絞られていく。「クイーンズランド州に生息するコウモリの中で最も目立ち、広範囲に生息しているのはいわゆるフライング・フォックス、つまりオオコウモリ属のうちの四種で、どれも果実を餌とする翼幅90センチ以上にもなる巨大なコウモリだ。ねぐらはマングローブやペーパーバーク(メラレウカ)が茂る湿地、あるいは熱帯雨林の木の上で、捕獲には特別な道具と方法が必要だ」
▼ ここでクイーンズランド州に生息するコウモリについて調べてみると、少なからぬ動画が見つかった。そのなかから2つを選んだが、これらを見ると、前の引用にある「満天の星のように厚いオオコウモリの群れ」が意味するものもよくわかる。住民には打つ手がないように見える。
四種のオオコウモリ属は、クロオオコウモリ、ハイガシラオオコウモリ、メガネオオコウモリ、オーストラリアオオコウモリ。「調査を続けるにつれて抗体陽性率はどんどん上昇し、2年後までに1043匹のオオコウモリを調べた結果、報告された抗体陽性率は47%だった。簡単にいえば、オーストラリア東部を飛び回るオオコウモリの半数近くがヘンドラウイルスに感染中か、過去に感染したことがあることを示していた」
オオコウモリの駆除を声高に訴える人も現れるが、やがてもうひとつの事実が明らかになる。「ワイルドライフ・ケアラー」と呼ばれる、緩やかなネットワークで野生動物の保護飼育を行ってきたアマチュアの人々に関する調査だ。これまでずっとコウモリと身近に接してきたケアラーは、検査陽性のコウモリに噛まれたことがある人も含め、128人のなかに抗体陽性者はゼロだった。つまり、馬がウイルスの「増幅器」になっていて、オオコウモリからヒトに直接感染することはなかった。
以前の記事「目に見える大きな動物について書くことから見えない生物へ――サイエンスライター、デビッド・クアメンの転換点になった「13頭のゴリラ」とその後の探求」で、クアメンは、人獣共通感染症の原因になるウイルスをめぐる謎を、ミステリー小説に例えていたが、ヘンドラウイルスにも謎が浮かび上がる。
クアメンの指摘で興味深いのは、馬がオーストラリア原産の動物ではなく、わずか二世紀ほど前にヨーロッパから入植者が初めて持ち込んだ外来種であること。ゲノム解析によれば、ヘンドラは古いウイルスで、コウモリもオーストラリアに古代から存在する。人類が生息するようになったのは、少なくとも4万年前。オオコウモリ、ヘンドラウイルス、人間はおそらく更新世の時代からオーストラリアで共存してきた。そして、馬が1788年1月に渡来し、ウイルス、保有宿主、増幅宿主、免疫を持たない人間という四要素が整った。ではなぜウイルスは200年以上もたってから出現したのか? それも謎のひとつだ。
クアメンが本書でカバーしているヘンドラウイルス感染症は、2004年、ブリスベンの北方1600キロに位置するケアンズで発生した事例まで。ブラウニーという馬と若い女性獣医師が感染し、馬は死亡し、獣医師は軽度の肺炎、喉の痛み、ひどい咳、筋力低下、倦怠感といった症状に見舞われたが、回復した。彼女はコウモリについては、「今すぐその辺を歩けば何百匹も見られますよ」と語っている。
ということで、2004年以降について少し補足しておきたい。
▼ 2011年にヘンドラウイルスのアウトブレイクが急増したことを伝えるニュース動画。
レポーターが伝えるところによれば、1994年に最初の感染者が発生してから2011年の初めまでアウトブレイクの発生はわずか14件、感染者7人のうち死者4人にとどまっていたため、あまり知られることがなかったヘンドラウイルス感染症が急速に広まり、馬産業界や当局が差し迫った問題に直面することになったという。この動画には、1994年のヘンドラ出現時に、獣医師として感染した馬ドラマシリーズを診たピーター・リードも登場し、現状についてコメントしている。先述したように、彼は感染した馬と濃厚接触していたが、発病することもなく、この時点でも健在だった。
馬のオーナーやバイオセキュリティ・クイーンズランドの主任獣医師は、赤外線カメラで夜間のコウモリと馬の行動を監視し、腹をすかせた馬が、コウモリが集まる木の下で餌を食べるのを防ぐために避難場所を設置するような対策を講じている。
▼ CSIRO(オーストラリア連邦科学産業研究機構)とヘンドラウイルス研究チームによる感染対策の動画。
こちらの動画では、2011年のアウトブレイク急増以降の対策にさらなる進展が見られる。まず、ヘンドラが、オーストラリアで最も致死性の高いウイルスと紹介される。人間に感染する唯一の方法は馬との濃厚接触で、馬の致死率は75%で、人間は60%。そんな感染症が急拡大したことで、当局も防止対策に乗り出した。CSIROは、パートナー企業ファイザー・アニマル・ヘルス社(現ゾエティス社)とともにワクチンの開発を進め、2012年11月に馬用のEquivacワクチンが発売された。馬への感染が予防できれば、人間への感染のサイクルを断ち切ることができるという戦略だ。
《参照/引用文献》
● 『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』デビッド・クアメン著、甘糟智子訳(明石書店、2021年)
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● 『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』デビッド・クアメン著、甘糟智子訳(明石書店、2021年)
● 『人類と感染症、共存の世紀 疫学者が語るペスト、狂犬病から鳥インフル、コロナまで』デイビッド・ウォルトナー=テーブズ著、片岡夏実訳(築地書館、2021年)