『海がやってくる』の著者エリザベス・ラッシュが海面上昇にとりつかれたきっかけはバングラデシュ取材、その沿岸地域では塩害が農業や住民の健康に深刻な影響を及ぼしていた

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ノンフィクション作家/写真家のエリザベス・ラッシュが2021年に発表した『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』では、その副題が示唆するように、ルイジアナ州のジャン・チャールズ島やフロリダ州のマイアミビーチ、スタテンアイランドのオークウッドビーチなど、アメリカ国内で海面上昇が急速に進む地域と住み慣れた土地を離れるかどうかの決断を迫られる住人に光があてられる。

『海がやってくる』エリザベス・ラッシュ

● 『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』エリザベス・ラッシュ著

著者のラッシュは、本書を刊行する3年前に、たまたま海面上昇に関心を持つようになった。ここで注目したいのは、そのきっかけが、アメリカ国内ではなく、アジアのバングラデシュでの体験だったことだ。

「インドとバングラデシュを隔てる世界最長の国境フェンスについての雑誌記事の執筆がきっかけだった。取材をしてみると、フェンスは技術的な細事に過ぎなかった。なぜなら人々は袖の下を使って国境を越えていたからだ。本当の問題は水だった。過去50年間にわたり、上流の灌漑プロジェクトがガンジス川の水の半分以上を別の流域へと移し、水量が減ってしまったからである。それと同時に、残された空間にベンガル湾が浸出していた。この二つの要因が合わさり、広域におよぶ穀物の不作を引き起こしていたのである」

その「広域」とはどの程度を意味するのか。ラッシュは、ファハールという少年に案内されてたどり着いた場所、枯れかけたカラシナ畑のことを、以下のように綴っている。

「ファハールと私がいた場所は、沿岸から241キロメートルも離れていたのだけれど、彼が育てるわずかな食物の大半がしおれてしまうのだった。自らの生計手段たる野菜のその葉脈に塩の跡さえなければ、海面が上昇していること、そして遠くの離れた場所で起こっている出来事の被害が自分に及んでいることを、ファハール自身が知ることはなかったかもしれない」

これがきっかけでアメリカに戻ったラッシュは、海面上昇にとりつかれ、アメリカ国内における海面上昇の証拠を探すようになったという。彼女がバングラデシュで当初の取材目的とは違う現実を目の当たりにすることがなければ、あるいは海面上昇を題材にした本を書くこともなかったかもしれない。

『大いなる錯乱』アミタヴ・ゴーシュ

● 『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』アミタヴ・ゴーシュ著

そのラッシュがバングラデシュで目の当たりにした現実については、インド出身の作家アミタブ・ゴーシュが、気候変動を「物語」「歴史」「政治」という観点から掘り下げた『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』と結びつけてみるのも意味があるだろう。彼はそのなかで、「アジアが地球温暖化の中心を占めているという事実は、数にもとづいている」とした上で以下のように書いている。

「アジア大陸に暮らす人の膨大さは、地球温暖化が人類にもたらす衝撃を大幅に増大するだけの影響力をもっている。たとえば、ベンガル・デルタ(バングラデシュの大部分とインド西ベンガル州のほとんどの地域からなる地帯)を考えてみてほしい。世界でもっとも広大な川のうちのふたつ、ガンジス川とブラマプトラ川の合流点で形成されたこのデルタは、ナイジェリアの四分の一ほどの広さに2億5000万人が住む、世界でもっとも人口密度の高い地域のひとつとなっている」

エリザベス・ラッシュがバングラデシュで出会った少年ファハールもそのうちのひとりということになる。そのファハールは、一族の土地を離れる可能性について語り、彼のいとこたちはすでにインドへと逃れていったという。この人口密度が高い地域には、同じように土地を離れることを余儀なくされるたくさんの人々がいることは容易に察することができる。ファハールの話を聞いたラッシュは以下のように書いている。

「この時私は、海面上昇が将来の世代の問題ではないことを理解したのだった。それはすでに起こっており、人間が大地へ介入したことによって深刻さを増しているのだ、と。そしておそらくさらに重要なことに、崩壊する海岸線から離れるための、ゆっくりとした移住がすでに始まっていることを感じたのである」

『海がやってくる』でバングラデシュにおける海面上昇や塩害に言及しているのはこの冒頭の部分だけだが、ここではバングラデシュの特に塩害、塩類化を取材した動画を取り上げてみたい。

▼ 「塩害の危機に直面するバングラデシュ沿岸地域の農家たち」

冒頭では、バングラデシュ南西部、インドとの国境近くの人里離れた沿岸地域が、世界最大のマングローブ林があるシュンドルボンと紹介される。シュンドルボンは、バングラデシュとインドの国境地帯に広がるベンガル・デルタの巨大なマングローブ天然林で、アミタブ・ゴーシュが2004年に発表した長編小説『飢えた潮』は、インド側のシュンドルボンを舞台にしていた。

この地域に暮らす農民の生活は、この10年で海面上昇と頻繁に発生する自然災害によって一変した。農地が塩分濃度の高い湿地と化し、作物を育てることができず、多大な損失をこうむっている。地元の人々は、洗濯や入浴など、唯一の水源になっている大きな池を利用してきたが、2009年に襲来したサイクロンによってそこに海水が流入して、濃度の高い塩水になり、公共の浄水施設はその塩分のためにフィルターが故障し、動かなくなっている。女性たちは淡水を得るために遠くまで足を運ばなければならず、日常生活も困難になっている。

そのため多くの人々が住み慣れた場所を離れ、他の地域に、大半は仕事を求めて都市部へ移動している。バングラデシュは世界で7番目に気候変動の影響を受けやすい国で、19の沿岸地区に暮らす4200万人が気候変動の脅威にさらされている。河川の浸食や塩害で毎年、6500人ほどが故郷を追われ、これまでに600万人以上が避難を余儀なくされているという。

▼ 「バングラデシュのマドゥマティ川の塩分濃度が急上昇している」

マドゥマティ川は長さ200キロメートル以上、ガンジス川から分かれ、南西部を流れ、ベンガル湾に注ぐバングラデシュでもっとも重要な川のひとつ。その川の塩分濃度が急上昇し、公衆衛生や環境に壊滅的な影響を及ぼしている。専門家はその原因として、海面上昇によって海水が川に流入していることのほかに、インドにあるガンジス川上流のダムの影響にも言及している。この川の水に頼っている農家は、作物が育てられず、多くの人の皮膚に発疹が出て、入浴や料理に利用することもできなくなっている。

川の塩分濃度は2100ppmと過去10年で最高値に達した。人体が耐えられる濃度は約600ppmまでだという。住人たちは近くの水処理場まで足を運ぶしかなく、飲料水を手に入れるために多くの時間が費やされている。それでも生活していくためには川の水に頼らざるをえない。塩類化は徐々に内陸へと広がっており、環境保護論者は、このまま塩水の侵入がつづけば、地域の人々の暮らし、農業、生物多様性などが深刻な脅威にさらされる可能性があると警告している。

▼ 「水のなかの塩:気候変動とバングラデシュの生活」

登場するのは、バングラデシュ南部沿岸の村に暮らすシャブジャンとアノワラというふたりの女性。彼女たちは水に囲まれて生活しているが、その水を飲むことはできない。海水が流入して、塩分濃度が高くなっているためだ。その塩分のために木々は枯れてしまい、家畜も塩水を飲んで死んでしまう。飲料水の不足が深刻な問題になり、水を得るために遠く離れた学校にある井戸まで足を運ばなければならない。

シャブジャンには5人の娘と2人の息子がいる。長男の妻と末娘には子供ができない。アノワラの義娘は、妊娠7か月で陣痛が始まったが、死産だった。アノワラよりも目上の人たちは、これほど頻繁に死産を経験することはなかった。彼女にはふたりの娘がいるが、ほかの3人の子供たちは生き延びることができなかった。多くの隣人たちにも同じことが起こっている。

アノワラは高血圧で、働いているときに突然、激しい首の痛みに襲われる。村から病院まではボートに乗って2時間以上かかる。医師によれば、塩分が過剰な環境であるため、クリニックにやってくる大勢の患者はみな高血圧に苦しみ、その多くが流産や不妊に悩まされているという。

《参照/引用文献》
● 『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』エリザベス・ラッシュ著、佐々木夏子訳(河出書房新社、2021年)
● 『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』アミタヴ・ゴーシュ著、三原芳秋・井沼香保里訳(以分社、2022年)
● 『飢えた潮』アミタヴ・ゴーシュ著、岩堀兼一郎訳(未知谷、2023年)




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● 『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』エリザベス・ラッシュ著、佐々木夏子訳(河出書房新社、2021年)
● 『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』アミタヴ・ゴーシュ著、三原芳秋・井沼香保里訳(以分社、2022年)
● 『飢えた潮』アミタヴ・ゴーシュ著、岩堀兼一郎訳(未知谷、2023年)