何十年にもわたってコウモリを観察し、ヘンドラウイルス感染症に関する謎を解き明かした生態学者ペギー・イービー その2:伐採による生息地の減少、冬季の食料不足とアウトブレイクの関係

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米カンザス州出身で、コウモリに魅了されてオーストラリアを拠点に活動する野生生物生態学者ペギー・イービーに注目する記事で、「何十年にもわたってコウモリを観察し、ヘンドラウイルス感染症に関する謎を解き明かした生態学者ペギー・イービー その1:ライナ・プロウライトやアリソン・ピールとの出会い」のつづき。

「その1」ではっきり書かなかったような気がするが、これも、人獣共通感染症(ズーノーシス)を引き起こすコウモリ由来のウイルスを取り上げ、コウモリとヒトにどんな接点があり、関係がどう変化し、保有宿主(自然宿主)としてのコウモリにどう対処しようとしているかなどに注目する試み。

『スピルオーバー』デビッド・クアメン著

● 『スピルオーバー ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』デビッド・クアメン

そういう意味では、イービーによるヘンドラウイルスの保有宿主であるコウモリの調査に話を進める前に、デビッド・クアメンの『スピルオーバー ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』の第Ⅶ章「天上の宿主――ニパ、マールブルグ」にあるこんな疑問を思い出しておいてもよいかと思う。

「なぜヘンドラは、ニパは、エボラは、SARSはもっと出現しないのか? コウモリはこんなにたくさんいて、こんなに多様性に富み、移動性が高く、彼らの間で人獣共通感染症(ズーノーシス)ウイルスがそんなに一般的ならば、なぜそれらのウイルスはもっと頻繁に人間に異種間伝播(スピルオーバー)し、定着しないのだろうか?」

さらに、同書の第Ⅰ章「青白い馬――ヘンドラ」で、クアメンがヘンドラウイルスに関して提示している疑問も思い出しておくべきだろう。ヘンドラの保有宿主はオオコウモリで、コウモリから馬へ、馬からヒトへ感染する。

クアメンの指摘で興味深いのは、馬がオーストラリア原産の動物ではなく、わずか二世紀ほど前にヨーロッパから入植者が初めて持ち込んだ外来種であること。ゲノム解析によれば、ヘンドラは古いウイルスで、コウモリもオーストラリアに古代から存在する。人類が生息するようになったのは、少なくとも4万年前。オオコウモリ、ヘンドラウイルス、人間はおそらく更新世の時代からオーストラリアで共存してきた。そして、馬が1788年1月に渡来し、ウイルス、保有宿主、増幅宿主、免疫を持たない人間という四要素が整った。ではなぜウイルスは200年以上もたってから出現したのか? そんな疑問が浮かび上がる。

オーストラリアで長年にわたってコウモリを観察してきた野生生物生態学者ペギー・イービーが、「その1」で触れたライナ・プロウライトやアリソン・ピールらと協力して行った調査・研究からは、そうした疑問に対するひとつの答えが見えてくる。

以前の記事「1994年にオーストラリア東部に出現したヘンドラウイルスとその後――オオコウモリから馬へ、馬からヒトへ乗り移る人獣共通感染症(ズーノーシス)」で書いたように、ヘンドラウイルスが出現したのは1994年のことだが、イービーがヘンドラに関心を持ったのは、2011年にアウトブレイクが急増し、前例のない数の馬が死亡したときのこと。それまで散発的だったアウトブレイクが、なぜ突然、急増したのか。彼女はその謎を解明するために、生態学者のグループに加わって調査に乗り出す。

▼ 2011年にヘンドラウイルスのアウトブレイクが急増したことを伝えるニュース動画。

この動画でレポーターが伝えるところによれば、1994年に最初の感染者が発生してから2011年の初めまでアウトブレイクの発生はわずか14件、感染者7人のうち死者4人にとどまっていたため、あまり知られることがなかったヘンドラウイルス感染症が急速に広まり、馬産業界や当局が差し迫った問題に直面することになったという。

※当時、日本で厚生労働省検疫所が提供した情報:「FORTH|新着情報|2011年07月11日更新 ヘンドラウイルス感染症(ウマモルビリウイルス肺炎)がオーストラリアで発生しています

イービーは、馬がヘンドラの陽性反応を示すたびに、感染防護具(PPE)を装着して、現場に向かうようになった。彼女はすぐに、それらの現場の周辺にあるコウモリのねぐらが新しくて小さいことに気づいた。何か奇妙なことが起こっていた。彼女は、データを収集するために独自の情報源を構築した。養蜂家と親しくなり、鍵を握る樹木がいつどこで開花するかを知ることができた。その情報は、コウモリの好物であるユーカリの花蜜の不足を確認するのに役立った。さらに、野生生物リハビリテーション・センターの職員たちに、彼らが面倒を見た病気や負傷したコウモリに関する記録を取るように依頼した。

研究チームは、気象パターンと森林被覆がどのように変化したかを調査した。イービーは、コウモリのねぐらの位置や数、健康状態に関する観察記録を提供した。その期間は25年に及んでいた。 2017年までに、研究者たちは、ヘンドラがどのようにして、なぜコウモリから異種間伝播(スピルオーバー)したのかを解明した。

▼ 「この科学者が何十年にもわたってコウモリを追跡し、致死的な病気に関する謎を解き明かした」――非営利・独立系の報道機関“ProPublica”の記事に連動した動画

この動画でイービーは、獣医師/野生生物疾病生態学者/グリフィス大学上級研究員アリソン・ピールとともにオオコウモリを捕獲してヘンドラを調べるフィールドワークを行っている。

では、イービーと研究者たちが解明した異種間伝播のメカニズムとはどのようなものだったのか。まず、1996年から 2002年まで、ヘンドラのアウトブレイクは発生しなかった。当時、コウモリは大きな集団となって、好物のユーカリの花蜜を求めて長距離を移動していた。時折、食糧不足になると、コウモリは小さな集団に分かれ、普段は食べない果実を食べて生き延びた。その行動によってしばしば彼らが、人や馬に近づくことになったが、通常は、それが長続きすることはなく、再びユーカリの花が咲けば、彼らは大きな集団に戻り、人間から離れていった。

しかし、2003年に状況が変わり始める。人々がユーカリの木を伐採しつづけたため、コウモリの生息地がますます減少していた。コウモリは食料不足に対応するために小さな集団に分かれ、以前のように人や馬に近くにやって来たが、食糧不足が解消されても多くのコウモリが大きな集団に戻らなかった。

感染したコウモリは、食糧不足でストレスを受け、より多くのウイルスを排出するようになった。コウモリの排泄物や唾液で汚染されたものの匂いを嗅いだり食べたりする馬は、ヘンドラを取り込む可能性がある。その後、ウイルスが馬から馬主や獣医師に飛び移る可能性がある。ヘンドラウイルスの異種間伝播は、2003年以降、頻繁に発生するようになった。

2017年の初頭、研究者たちはヘンドラがコウモリから馬、そしてもしかすると人へと飛び移る条件が整ったと判断した。干ばつに続いて多量の雨が降ったため、ユーカリの花の不足が深刻になり、栄養失調のコウモリが野生生物保護団体に発見された。すでに馬用のヘンドラワクチンは開発されていたが、ほとんどの馬主はそれを使っていなかった。イービーと共同研究者はその冬、会報で獣医師に、ヘンドラのアウトブレイクが差し迫っているため、馬の近くでは完全な保護具を着用する必要があるという警告を発した。彼らは正しかった。そのシーズン、別々の敷地にいた4頭の馬がヘンドラに感染したが、ヒトへの感染は回避された。

さらに、2020 年にも同じような天候と食糧不足のパターンが繰り返されたため、イービーと研究者は、オーストラリアの冬季シーズンが始まる5月に、再度、警告を発した。しかし、同月下旬に1頭の馬の感染が発覚し、安楽死させられただけで、その後は何も起こらなかった。ところが、7月中旬になって、東海岸近くにあるかつて金鉱の町だったジンピーでは、厳しい天候の影響を受けず、フォレストレッドガムというユーカリの一種が一斉に花を咲かせ、約24万羽のオオコウモリがそこに集まっていたことが判明する。

イービーと共同研究者は、冬に花を咲かせる、伐採を免れた木を保存し、さらに多くの木が植えられれば、コウモリは確実に人々から遠ざかり、国全体をヘンドラウイルスから守ることができると考えている。

※ペギー・イービーやライナ・プロウライト、アリソン・ピールらが共同で「Nature」誌に発表した論文の日本語要約記事「疫学:コウモリの生息域が変わると人畜共通ウイルスが出現しやすくなる|Nature Japan」。英語のオリジナル記事「Pathogen spillover driven by rapid changes in bat ecology|Nature, 16 November 2022

▼ この動画でライナ・プロウライトが語っているように、彼女たちのヘンドラの研究は、他のウイルスにも応用して、パンデミックの予測や予防に役立てることができるかもしれない。

《参照/引用文献》
● 『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』デビッド・クアメン著、甘糟智子訳(明石書店、2021年)
● “THE SCIENTIST AND THE BATS: Funders thought watching bats wasn’t important. Then she helped solve the mystery of a deadly virus” by Caroline Chen|ProPublica, May 22, 2023, 5 a.m. EDT




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● 『人類と感染症、共存の世紀 疫学者が語るペスト、狂犬病から鳥インフル、コロナまで』デイビッド・ウォルトナー=テーブズ著、片岡夏実訳(築地書館、2021年)