ジェームズ・ブラッドリー(James Bradley)といっても、アメリカの有名な歴史家/ノンフィクション作家のことではない。オーストラリアのアデレード出身の作家/批評家だ。2024年に邦訳が出たアンソロジー『人新世SF傑作選 シリコンバレーのドローン海賊』には、彼の短篇「嵐のあと」が収められ、巻末に掲載されたキム・スタンリー・ロビンスンへのインタビューも担当していた。短編に添えられたプロフィールは、「オーストラリアの作家、批評家。これまでに複数の長編と短篇を発表している」というそっけないものだった。
ここで取り上げるのは、ブラッドリーが2025年に発表した『Landfall』で、現時点では最新作になる。
舞台は、2050年代のオーストラリア、シドニー。20年ほど前に起こった世界的な氷床・氷河の大融解によって海面が急激に上昇し、シドニーの沿岸部や低地も恒久的に水没している。異常気象によって最高気温が50℃を超えるような熱波が常態化し、湿度も非常に高いため、息苦しくなるような空気に包まれ、外ではマイボトルが手放せない。浸水地域には、貧困層や財産を失った人々が、まだ水に浸かっていない建物の上層階などに、ひしめき合うように暮らしている。そんなスラム化した地域で事件が起こる。5歳の少女ケイシーが近所の友だちと外で遊んでいるあいだに姿を消した。その事件を担当するのは、主任刑事のサディヤ・アザド。上司であるグエン警部の指示で、最近異動してきたポール・フィンドレー巡査部長が彼女のパートナーになる。
物語は月曜日からはじまるが、その時点ではそこに特別な意味はない。この近未来世界では、多くの人々がメガネ型のウェアラブル端末を装着し、AIアシスタントが日常的に個人の生活や活動をサポートしている。サディヤに事件の第一報をもたらすのも彼女のAIアシスタントで、そのままブリーフィングを受け、会話しながらプロファイリングを進める。それから新パートナー、フィンドレーとともに浸水地域に向かい、失踪した少女ケイシーが両親と暮らす家を訪れ、両親から話を聞き、さらにケイシーが直前まで遊んでいた近所の子供たちにも会い、彼らがかくれんぼをしていた現場を調べる。サディヤたちは、ケイシーが消えた場所のそばに建つ未完成のビルの前に、事件当時、停車していたことが確認されたシルバーのEV車に注目する。その所有者ニーナ・ルキックは、浸水地域で再開発を進める大手企業ホライゾン社の社員だった。そこで、ニーナと車の行方を追うことにする。
しかし火曜日になって事態は急変する。ケイシーの失踪現場からそれほど遠くない場所で、焼け焦げた車が発見され、トランクから発見された女性の遺体がニーナのものであることが判明する。ケイシーがなんらかの深刻なトラブルに巻き込まれた可能性が浮上するが、そこに別のニュースがさらに追い打ちをかける。月曜日にはまだ進路が定まっていなかったサイクロン「ナスリーン」が、シドニーを直撃することがほぼ確実になるのだ。そこで、この物語は月曜から金曜までの5日間に限定され、大惨事に向かって緊張が増していくことになる。
しかし、本作の注目点は、そんな一刻を争う緊張感に満ちた展開だけではない。物語にはより重要な要素が埋め込まれている。キーワードになるのは「気候難民」だ。
サディヤは、認知症を患う父親アルマンとふたりで暮らしている。この父娘は、サディヤがまだ子供だったころにバングラデシュから気候難民としてオーストラリアにわたってきた。かつてアルマンはバングラデシュの大学で工学を学び、科学者/エンジニアとして海面上昇に対処するための堤防や橋の建設に携わっていた。当時彼は、妻とふたりの娘たちと暮らしていたが、バングラデシュが大洪水に見舞われたとき、一家の住居にも濁流が押し寄せ、彼には幼い次女サディヤを助けるのが精一杯だった(ちなみに、バングラデシュにおける海面上昇については、過去の記事「『海がやってくる』の著者エリザベス・ラッシュが海面上昇にとりつかれたきっかけはバングラデシュ取材、その沿岸地域では塩害が農業や住民の健康に深刻な影響を及ぼしていた」でいくらか触れている)。
認知症を患うアルマンは、現在と過去の境界が曖昧になり、過去に深くとらわれつつある。サディヤも喪失感を抱えている。警察は迫りくるサイクロンへの対応に人員を割き、ケイシーの捜査は縮小されていく。だがサディヤには、少女が犠牲になるのを見過ごせない。捜査によって、少女の失踪が、浸水地域における再開発プロジェクトと関わっている公算が高まり、サイクロンによって証拠が洗い流される恐れがあるとなれば、なおさら引くわけにはいかない。
一方で、ケイシーが失踪した事件には、もうひとりの人物が絡んでくる。ホームレスのタシムという若者だ。彼はたまたま失踪の現場近くに潜んでいて、テープで口をふさがれた少女が男に運ばれていくときに、少女と目が合う。少女はバンに押し込まれ、男がその場を離れるのを見たタシムは、バンに乗り込んで彼女を助けようとするが、男が戻ってきたのに気づき、あわててバンから出て、近くに身をひそめる。その後、バンはその場を去ってしまう。
少女が何者であれ、もう自分にはどうすることもできないと思った次の瞬間、彼はバンのなかに自分の携帯とバックパックを置いたままだったことに気づく。そこには、彼が何よりも大切にしている妹の写真がおさめられていた。彼は、なんとかして携帯の位置情報を確認しようとするなど、血眼になってバンと少女を捜しはじめる。
そんな展開から、タシムの過去が次第に明らかになり、もうひとりの気候難民の物語が浮かび上がる。彼はインドネシアで母親と妹と暮らしていたが、気候変動による殺人的な熱波が襲いかかり、まだ幼い妹と母親が、熱中症や脱水で衰弱し、彼の目の前で命を落としていった(この悲劇は、キム・スタンリー・ロビンスンの『未来省』の冒頭に描かれるインドにおける大惨事が脳裏をよぎるだろう)。タシムは熱波を逃れ、オーストラリアに向かう密航船に乗り込んだが、国境警備隊に捕らえられ、過酷な収容所に送り込まれた。そのまま死ぬか、強制送還されるかという状況に追い込まれた彼は、収容所を脱走し、隠れて生きるホームレスになった。すべてを失った彼には、妹の写真だけが支えになっていたのだ。そんな彼のなかで、写真を取り戻すことと少女を助けることが重なっていく。
こうしてそれぞれに喪失感を抱えるサディヤの捜査とタシムの執念の追跡が、サイクロンが迫りくるなかで絡み合うことになる。しかし、彼らがどれほど力を振り絞っても、それだけでは限界がある。物語にはっきり書かれているわけではないが、サディヤの上司であるグエン警部は、捜査のはじまりから彼女の暴走を警戒していたと想像できる。警部は名前からしてヴェトナム系だと思われるが、同じアジア系でもサディヤとはまったく異なる道を歩んできたのだろう。だから、最近異動してきたばかりのポール・フィンドレー巡査部長というマジョリティに属する人間を、彼女のパートナーに指名した。いわばお目付け役だ。そんなフィンドレーは、最初は警部の期待にこたえているが、サディヤや彼女の父親のことを知り、失踪事件の真相に迫るにしたがって変化していく。
ジェームズ・ブラッドリーは、本作でオーストラリアにおける気候変動だけでなく、グローバル・サウスの視点、あるいはアミタヴ・ゴーシュが地球温暖化の中心を占めていると主張するアジア(『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』)の視点も盛り込み、気候変動問題の背後にある著しい格差や不正を炙り出している。
《参照/引用文献》
● 『人新世DF傑作選 シリコンバレーのドローン海賊』ジョナサン・ストラーン編 中原尚哉 他訳(創元SF文庫、2024年)
● 『Landfall [kindle version]』James Bradley (Hodder & Stoughton, 2025)
● 『未来省』キム・スタンリー・ロビンスン 瀬尾具実子訳(パーソナルメディア、2023年)
● 『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ著、三原芳秋・井沼香保里訳(以分社、2022年)
《関連リンク》
● 「『海がやってくる』の著者エリザベス・ラッシュが海面上昇にとりつかれたきっかけはバングラデシュ取材、その沿岸地域では塩害が農業や住民の健康に深刻な影響を及ぼしていた」
● 「キム・スタンリー・ロビンスンの『未来省』とアンドレアス・マルムの『パイプライン爆破法 燃える地球でいかに闘うか』を結びつける”ラディカル派効果”について」
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● 『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ著、三原芳秋・井沼香保里訳(以分社、2022年)