タイガー・キッドナッピング、家族のイニシエーション、あるいは娘の自立をめぐるドメスティック・ノワール――ジリアン・マカリスター著『Caller Unknown』

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以前の記事「夫は凶悪な立てこもり犯だったのか? 7年後も彼を想いつづける妻が事件の真相に迫るドメスティック・ノワール――ジリアン・マカリスター著『Famous Last Words』」で少しだけ触れたが、今年(2026年)4月に刊行された『Caller Unknown』は、ジリアン・マカリスターの『Famous Last Words』(邦題『バスカヴィル作家の最終便』)につづく最新作になる。

マカリスターの作品ではしばしば、冒頭から主人公やその家族が、予期せぬ深刻なトラブルに見舞われ、窮地に立たされるが、今回のトラブルは誘拐、それも身代金目当てではなくタイガー・キッドナッピング(Tiger Kidnapping)、すなわち、人質の解放と引き換えに、犯罪への加担を強要されることになる。

『Caller Unknown』ジリアン・マカリスター

『Caller Unknown』ジリアン・マカリスター著

『Caller Unknown』の主人公は、家族とロンドンに暮らす43歳のシェフ、シモーヌ。彼女と夫のダミアンはレストランを共同経営し、ふたりにはルーシーという18歳の娘がいる。そのルーシーは、秋には王立演劇学校に進むことになっていて、夏の間、アメリカのテキサス州デル・リオでボイス・キャンプに参加していた。この物語は、ロンドンを発ったシモーヌが、そんなルーシーと合流するためにデル・リオ国際空港に降り立つところから始まる。空港で荷物を取り戻すのに手間取った彼女は、夜遅くにルーシーが宿泊している人里離れたレンタルロッジにたどり着く。母娘はキャンプを計画していたが、それぞれの部屋で休んだ翌朝、信じがたいトラブルに巻き込まれている。

シモーヌが目覚めると、ルーシーの姿はどこにも見当たらない。携帯や靴は置いたままだが、壊れたドアのところに娘のものだとわかる髪が落ちていた。不安にかられているとどこか近くで呼び出し音が響き、枕の下に使い捨て携帯が置かれているのに気づく。送りつけられたメッセージで、ルーシーが誘拐されたことが判明し、シモーヌは、その晩に近くの廃教会に来るよう指示される。さらに、送られた動画では、拘束されたルーシーが、要求に従うよう懇願していた。

廃教会に着いたシモーヌは、指示に従って使い捨て携帯を破壊して捨て、草むらに置かれた別の使い捨て携帯で新たな指示を受ける。要求は身代金ではなかった。彼女が娘を取り戻すためには、メキシコのヌエバ・ロシータに行き、ある物を受け取り、戻ってこなければならない。シモーヌは観光バスの席を確保し、指示どおりにヌエバ・ロシータを訪れ、廃墟のガレージでバッグを見つける。それを開けた彼女は、中身が何キロものコカインであることがわかる。彼女は、両親が薬物中毒だったという過去を背負っているのだ。

シモーヌはそのバッグを持って再び観光バスに乗り、デル・リオに戻ってくる。国境では緊張に満ちたドラマがあるが、ここでは触れない。この旅の終盤で彼女は、独自の判断である行動をとる。国境を越えてアメリカに戻ったあと、目に入った銃砲店で銃を購入するのだ。是が非でも娘を取り戻すためには、それが必要になるかもしれないと考えた。そのことが、彼女とルーシーのその後の運命に影響を及ぼすことになる。

再び廃教会。そこで人質とコカインの交換が行われるはずだったが、ひとつの手違いから負のスパイラルが巻き起こり、あれよあれよという間にシモーヌは誘拐事件に輪をかけた苦境に陥っている。確かにシモーヌはルーシーを取り戻す。しかし、その場の状況は、実際に起こっていたことを覆い隠し、シモーヌとルーシーは圧倒的に不利な立場に追いやられている。シモーヌが目出し帽の男を撃つ姿や、助け出されたルーシーが危険を感じて接近する別の車に発砲する姿は、ドライブレコーダーに残されていたが、母娘が誘拐事件に巻き込まれ、犯罪を強要されていたことを示す証拠はどこにもないため、麻薬取引のもつれから起きた殺人に見える。だからシモーヌとルーシーは逃走するしかなかった。

この物語は、母娘が逃走する時点で、まだ4分の1程度しか進んでいない。中心になるのは、誘拐ではなく、指名手配されて異国で身を隠すシモーヌとルーシー、そしてロンドンから駆けつける夫/父親ダミアンという家族が、いかにしてこの苦境を脱していくかにある。このような設定で、家族の関係を掘り下げていくところがいかにもマカリスターらしい。

筆者は、マカリスターの5作目『How to Disappear』(2020)を取り上げたとき、まとめの部分で以下のように書いた(「証人保護プログラムによって引き裂かれた家族と口封じをもくろむ凶悪集団の暗闘――ジリアン・マカリスター著『How to Disappear』」参照)。

『How to Disappear』ジリアン・マカリスター

『How to Disappear』ジリアン・マカリスター著

「以前取り上げた『ロング・プレイス、ロング・タイム』、『Famous Last Words』と本作を並べてみると、主人公や家族が窮地に陥る状況はまったく違っているにもかかわらず、マカリスターが共通する物語を掘り下げていることがわかる。予想だにしない深刻なトラブルによって家族は崩壊の危機に瀕する。ほとんど崩壊したといっても過言ではない。その困難な状況で、家族同士は意思の疎通をはかることができないため、葛藤しながら独自の判断で真相に迫り、トラブルを解消しようとする。その結果として、作品によってその次元は違うが、家族が単に元に戻るのではなく、揺るぎない関係へと生まれ変わるのだ。
 ドメスティック・ノワールといえば、家庭における青ひげ的な図式をめぐる男女のせめぎ合いが大きな特徴になっているが、マカリスターは家族と犯罪からまったく違う物語をつむぎだす。崩壊の危機に瀕した家族が、試練を経て生まれ変わる。つまり彼女は強く意識して家族のイニシエーションを繰り返し描いている。それはドメスティック・ノワールが可能にする新たな方向性といってもよいだろう」

本作『Caller Unknown』では、そのイニシエーションがより具体化されているように思える。シモーヌは、薬物中毒だった両親から育児放棄され、里親に育てられた過去があるため、ルーシーとの絆を意識し、彼女を守ろうとしている。そのルーシーは王立演劇学校に進むことが決まり、母娘がデル・リオで計画していたキャンプは彼女たちの関係のひとつの区切りになるはずだった。

では、事件を通してその関係はどう変わるのか。両親とルーシーの状況や未来に対する認識にはズレがある。一家は砂漠の町ターリングアに身を隠し、地元の弁護士の力を借りて誘拐犯の手がかりを探す。しかし、警察の包囲網が狭まるとき、両親、あるいはシモーヌに残された選択肢は、過去をすべて捨てて新たな人生を生きるか、司法取引で自分を犠牲にして娘を救うしかない。だが、ルーシーは密かに別の未来を切り拓こうとしている。つまり、シモーヌと計画していたキャンプとはまったく違うかたちで、区切りをつけ、心に傷を負いながらも自己を確立することになるのだ。

《参照/引用文献》
● 『Caller Unknown』Gillian McAllister [kindle edition] (Penguin, 2026)
● 『How to Disappear』Gillian McAllister [Kindle edition] (Penguin, 2020)
● 『Famous Last Words』Gillian McAllister (William Morrow Paperbacks, 2025)
● 『ロング・プレイス、ロング・タイム』ジリアン・マカリスター 梅津かおり訳(小学館文庫、2024年)




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● 『How to Disappear』Gillian McAllister [Kindle edition] (Penguin, 2020)
● 『Famous Last Words』Gillian McAllister (William Morrow Paperbacks, 2025)
● 『バスカヴィル作家の最終便』ジリアン・マカリスター 梅津かおり訳(小学館文庫、2026年)
● 『ロング・プレイス、ロング・タイム』ジリアン・マカリスター 梅津かおり訳(小学館文庫、2024年)