モート・ローゼンブラム 『オリーヴ讃歌』 第3章 「パレスチナとイスラエル」からのメモ

スポンサーリンク

今回はモート・ローゼンブラム『オリーヴ讃歌』の第3章のまとめである。そのタイトルは「パレスチナとイスラエル」。

第2章はローゼンブラムが土地を購入したフランス国内を舞台にした話だったが、この第3章からはフランスの外へと旅立つ。それはオリーブの故郷を訪ねる旅である。著者がそんな旅で最初の訪れたのは、聖地エルサレムだった。ではなぜエルサレムなのか。その理由は以下のように説明されている。

『オリーヴ賛歌』 モート・ローゼンブラム著

「オリーヴの故郷をたずねることに決めたとき、まず考えたのはクレタ島のクノッソス宮殿だった。古代クレタ王たちが、愛するオリーヴ油に基づく文明を築き上げた場所である。あるいは、トルコとシリアが境を接する小アジアの平原でもよかった。しかし、やはりエルサレムの方がふさわしいように思えた。ここでは、歴史は決して過去のもとになることがない」

その意味するところは、すでに第1章で明らかにされていた。以下がその記述だ。

「キリスト教徒やユダヤ人ばかりでなく、イスラム教徒にとっても、オリーヴは知恵と豊饒と平和の象徴である。しかし、オリーヴは数千年にわたり、争いの象徴ともなってきた。今もなお、オリーヴは聖地パレスチナの政治状況と切っても切れない関係にある。ヨルダン川西岸では、イスラエル側もパレスチナ側も、土地の所有権を示すためにオリーヴを植える。パレスチナ人が立ち上がると、イスラエルは即座にすさまじい報復をする。オリーヴの木のうしろから石がひとつ飛んだだけで、ブルドーザーがやってくる。昔からのオリーヴ畑が無惨につぶされ、所有者の家族には何代も後まで癒しがたい傷が残る」

第3章では、そんな現実が掘り下げられていく。そこではオリーブが生活、文化、政治、あらゆるものと密接に結びついている。古いオリーブ畑をユダヤ人入植者に売ったパレスチナ商人が、同胞に殺される事件さえあったという。東エルサレムのパレスチナ土地・水資源局は、イスラエルのブルドーザーによる破壊と土地接収を逐一記録している。そこには以下のような記録がある。

「一九九三年五月から一九九五年七月にかけては八十一件の記録がある。こんな具合だ。『カリウト、オリーヴ四百本、入植者の襲撃』、『アブート、オリーヴ六十本、投石』、『ジャイユヌ、オリーヴ四百本、イスラエル当局に追われている者の所有』、『ファウラン、オリーヴ十五本、治安上の理由』、『ベイト・レード、オリーヴ千二百本(理由の記載なし)』二年間で計一万四千百四十五本の木が根こぎにされ、中にはイチジクやアーモンド、桃などの木も混じっているが、ほとんどはオリーヴだった」

我が家のオリーブの1本、スペイン原産のネバディロブランコ

オリーブ栽培家の端くれとなり、オリーブ油の奥が深い世界に魅了されたローゼンブラムは、「ヨルダン川西岸で最高のオリーヴ油をつくっているのはどこか」を人々に尋ねまわり、ベツレヘムと隣り合った石造りの町ベイト・ジャラにたどり着き、パレスチナ一のオリーブ油を作っているというファリド・ムカルカルに出会う。ファリドは山の斜面に彼の一族が引き継いできた五千本のオリーヴを栽培している。

このファリドのエピソードで印象に残るのは、彼が作るオイルの味だ。著者によれば、搾りたてのオイルは「おそろしく苦みが強く、ぴりぴりする」という。早摘みして搾っているからだ。ファリドはそれを数ヵ月寝かせて最高の味になるのを待つ。

「古代ギリシアの昔から、人々は適切な収穫時期を選ぶことでオイルの味を決定してきた。私はファリドになぜこんなに早く収穫するのかと訊いた。ヨルダン川西岸各地で、私はこの質問をくりかえした。答えは栽培上の理由というより、社会政治的な事情だった。一九四八年のイスラエル建国に続く混乱の中で、大勢のパレスチナ人が近所の畑からオリーヴを盗んだ。所有者がはっきりしない場合は特に被害に遭いやすかった。放浪のベドウィン族の一家が、一晩で畑を荒らしてしまうこともあった。オリーヴの実を無事守るには、壷に入れるか、オイルにしてしまっておくしかない。パレスチナの人々は、実がようやく摘めるぐらいに熟すと、すぐさま摘み取った。
現在ではオリーヴがとられるおそれはなくなったが、まだ当時の習慣が残っている。近所で一軒が収穫を始めると、残りの家も一斉にとりかかる。価格が下落に転じてから、売れないオイルを抱えるはめになりたくない」

そんな事情でその土地のオイルの味が決まり、定着し、人々の好みになっていくこともあるということだ。

ローゼンブラムは、章の後半では歴史に深く分け入っていく。その案内人を務めるのは、レヴァディム・キブツにある小博物館の館長ナタン・エイドリン。ハイファに生まれた彼は、かつてレヴァディムにある遺跡から、三千年前のオリーブの圧搾機、石臼、オリーブをすりつぶすのに使った花崗岩製の器具などを発見した。

古代パレスチナに住んでいたペリシテ人は、三千年前、ガザに近い海岸沿いに広大なオリーブ畑をつくり、石臼を何百と製造した。エイドリンの見積もりによると、首都「エクロンの大規模な採油所は百十四にのぼり、一日四時間、三か月間稼動したとして、それぞれ一シーズン七トンから十トンのオイルを生産していた」。しかし、そのオリーブの木は、エクロンが破壊されたときに消滅し、今では一本も残っていない。

エイドリンは将来、そこに新たにオリーブ畑を作り、古代の採油所を再現し、昔のやり方でオイルを搾ることを夢見ている。

《参照/引用文献》
● 『オリーヴ讃歌』モート・ローゼンブラム 市川恵里訳(河出書房新社、2001年)





● amazon.co.jpへ