トゥンデ・ケラニ監督の『Ayinla』(2021)は、ヨルバ族をルーツとするアパラ・ミュージックのスーパースター、アインラ・オモウラを題材にしている。アパラ・ミュージックは、ボーカルのコール・アンド・レスポンス、トーキングドラムなどのパーカッションやアギディボ(親指ピアノ)のサウンドを特徴としている。アインラ・オモウラは、1933年にナイジェリア南西部、オグン州アベオクタのイトコに生まれ、ミュージシャンとしてアベオクタを拠点に活動し、1980年にその地元のバーで起きた喧嘩で不慮の死を遂げた。
本作は、1980年、アベオクタのイトコから物語がはじまる。アインラが不慮の死を遂げたのが、その年の5月なので、彼の最期の日々が描かれることになる。アインラを演じるのは、個人的にカメレオン俳優と位置づけているラティーフ・アデディメジ。最期の日々を彩るエピソードは、大きくふたつに分けられる。
ひとつはこれまで繰り返されてきたこと。まずなによりも、アインラと彼のグループによるアパラのパフォーマンスだ。その会場に男たちが乱入して、騒ぎを起こすことがある。気が短く、奔放な性格だったアインラには、他のミュージシャンとのあいだに確執があったといわれる。そんな騒乱のあとには、コミュニティの首長による調停が行われる。
派手な女性関係も、彼にとっては生活の一部だったのだろう。家には妊婦がいて、行きつけの店の女主人を口説いて親密になり、別の女性とも深い関係になっていく。だが、今回は生活の一部ではすまない。そんな関係が、彼の死期を早める一因となるからだが、それは後述する。
もうひとつ印象的だったのが、アインラの歌が、人々を啓蒙したり、社会批評になったりしていたこと。たとえば、女性たちが、肌を脱色することなどについて議論する場面があるが、それはアインラが歌で脱色を批判していたことと無関係ではない。彼が紡ぎだすそうした言葉の力が、彼の音楽が大衆に受け入れられる要因になっていたことには注目しておくべきだろう。
▼ トゥンデ・ケラニ監督『Ayinla』(2021)予告
一方で、この1980年という年に、アインラのキャリアに大きな転機が訪れる。プロモーターのアジャラ(クンレ・アフォラヤン)が、まずアインラのマネージャーのバヨワ(ミスター・マカロニ)に、そしてアインラ本人に会い、ロンドン公演をオファーするのだ。その企画が進みだすと、アインラの周辺がいろいろな意味で慌ただしくなる。編集者のアンクル・サム(ビンボ・マヌエル)はバヨワに独占取材を申し込み、彼が送り込んだ女性記者ジャイエ(アデ・ラオイエ)がアインラを追いかけ、なんとかインタビューをとろうとする。
この時点で、先述したアインラと別の女性の関係がはじまる。バヨワはその女性デボラ(オモウミ・ダダ)を彼の従妹と紹介し、デボラはアインラに誘われるままに深い関係になるが、実は彼女はバヨワの恋人だった。デボラはあっさり男を乗り換えたばかりか、アインラに彼女もロンドン公演に同行することを承諾させる。バヨワは、デボラがアインラのグループの一員になっていることを知って逆上し、アインラとの関係に亀裂が入り、それが悲劇的な結末を招き寄せることになる。
トゥンデ・ケラニ監督はアインラの最期の日々を切り取ることで、このスーパースターのなにを描こうとしたのか。本作におけるケラニのアプローチは、前々作の『Maami』と比較してみると興味深い。『Maami』に登場するサッカー選手は、実在の人物ではないが、アプローチには共通点がある。
『Maami』でも、2日間という主人公の人生の限られた時間が切り取られ、重要な分岐点が描き出される。主人公は、イングランドのアーセナルFCで成功を収めたナイジェリア出身のサッカー選手、カシマウォ(ウォレ・オジョ)。物語はそんなカシマウォが母国に戻ってきたところからはじまる。ナイジェリアでは、2010年のワールドカップ・南アフリカ大会に向けた代表選手の選考が大詰めを迎え、カシマウォの動向に注目が集まっているが、彼はチームに合流するかどうかを明言していない。そんな彼は、2日間のなかで母親の記憶をたぐり寄せ、過去を旅して答えを出す。
ここで注目したいのは、カシマウォとアインラが真逆の立場にあることだ。カシマウォの過去については、母親との関係以外はほとんど想像に委ねられているが、おそらく彼は若くしてナイジェリアを飛び出し、ヨーロッパで成功を収めた。戻ってきた彼は、その時点では母国にアンビバレントな感情を抱いていて、代表として国を背負う心の準備ができていない。そして、2日間で過去に決着をつけ、自己を確立していくことになる。
これに対して本作のアインラは、ヨルバ族のコミュニティを中心にナイジェリアで成功を収め、ロンドン公演で世界に羽ばたこうとする。では、アインラは世界をどうとらえていたのか。本作で印象に残るのは、英語をめぐるエピソードだ。実際はどうだったのか定かではないが、アインラは英語がまったく読めない。ジャイエが書いたはじめての記事は、ヨルバ語に訳してもらわなければならない。完成したツアーのポスターの中央にある文字「Apala in London」が、彼にはまったく読めない。フェラ・クティのような国内のミュージシャンは知っているが、西洋のミュージシャンはまったく知らない。
ジャイエは、自分が書いた記事の内容にアインラが満足しているのを見て、すかさずインタビューを申し出る。するとアインラの表情がこわばり、激怒する。彼は言葉に関して他人に主導権を握られるのが許せないらしい。海外のメディアが彼にインタビューしようとする場面も興味深い。アインラは質問には答えず、わざわざ場を変えて歌を通して答える。アインラは、自分の音楽を通して言葉を自在に操る一方で、言葉そのものがもつ魔力を恐れていたようにも見える。ロンドン公演の企画が持ち上がらなければ、そんな言葉をめぐるせめぎ合いが描かれることもなかっただろう。
ちなみに、トゥンデ・ケラニ監督はラゴス生まれだが、5歳のときに祖父母と暮らすためにアインラの出身地であるアベオクタに移り、近所の住人としてアインラを目撃していたらしい。
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