母親の記憶をたぐり、アイデンティティを確立していくサッカー選手、邪悪なものから息子を守る母親像――トゥンデ・ケラニ監督のナイジェリア映画『Maami』

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トゥンデ・ケラニ監督の『Maami』(2011)は、ナイジェリアを代表する作家のひとり、フェミ・オソフィサンの同名小説の映画化で、トゥンデ・ババロラが脚本を手がけている。物語は、単に現在と過去を往復するだけでなく、現在も過去も時間がほぼ2日間に限定され、そこに主人公の人生の分岐点が集約されていく。

主人公は、イングランドのアーセナルFCで成功を収めたナイジェリア出身のサッカー選手、カシマウォ(ウォレ・オジョ)。物語はそんなカシマウォが母国に戻ってきたところからはじまる。ナイジェリアでは、2010年のワールドカップ・南アフリカ大会に向けた代表選手の選考が大詰めを迎え、カシマウォの動向に注目が集まっているが、彼はチームに合流するかどうかを明言していない。

極貧の母子家庭で育ったカシマウォは、母親(フンケ・アキンデレ)の記憶をたぐり、過去を旅する。それはカシマウォの誕生日の前日から当日にかけての時間で、母親は、肉が食べたいという息子の願いを叶えるために奔走する。とんでもなく逞しい母親を演じるフンケ・アキンデレは、女優だけでなく監督やプロデューサーとしても活躍している。

▼ トゥンデ・ケラニ監督『Maami』予告

この過去の旅では、ふたつのことが強く印象に残る。

ひとつは極貧の表現。特に市場の場面。息子のためなら迷いがない母親は、物乞いまがいのことも厭わない。金を手にした母子は乗り合いタクシーで市場に向かうが、乗り合わせた強盗に奪われてしまう。無一文で市場にやってきた母親は、肉屋から不要になった骨を集め、その骨にわずかに残った肉をこそげ落として集めようとする。すると、その様子を見ていた金持ちと彼の専属運転手が議論をはじめる。運転手は母子が食べるために肉をこそげ落としていると主張するが、金持ちは、母親が雇われたメイドで、ペットの犬にやる骨を用意していると考える。賭けをした彼らは、母親に目的を尋ね、母親がはっきりと、息子の誕生日に肉を食べさせるためだと答えると、それを耳にした金持ちや周囲にいた人々から、肉を含めた食べものがあっという間に集まる。だがその先に、まだ悲劇が待ち受ける。

もうひとつは、母親および父親がまとうイメージだ。カシマウォは父親のことをまったく知らなかったが、市場で食べものを手に入れた母親は、とあるお屋敷の前を通りすぎ、そこに父親が暮らしていると息子に教える。彼女は、いつか彼が父親と向き合うために教えたつもりだったが、彼はどうしても父親が見たいという。ふたりはその屋敷に忍び込むが、奇妙な赤い部屋に紛れ込み、邪悪な存在が姿を現し、父親が侵入者に気づき、息子を捕えようとする。母親はその追っ手をなんとか振り払う。そこには、単に父親ではなく、邪悪なものから息子を守ろうとする母親像が浮かび上がる。このような母親像は、本作だけではないような気がするが、またほかの作品を取り上げるときに考えてみたい。

こうした過去の旅から、現在のカシマウォがどんな行動をとるのかはある程度、予測できるだろう。彼は邪悪な存在と向き合い、悲しい過去を乗り越え、アイデンティティを確立することになる。