ケニア映画『Subira』(2018)で長編デビューを果たした女性監督ラヴニート・シッピー・チャダは、異色の経歴の持ち主だ。彼女はインドで生まれ育ち、大学では心理学を専攻した。学士号を取得後、カナダのトロントに移り、そこでビジネスを学び8年間を過ごした。1997年にケニアのナイロビに移住し、金融サービスの仕事をしていた。だが、どうしても自分の物語を伝えたいという思いが募り、2007年に仕事を辞め、映画を通して自己を表現するようになった。長編『Subira』は、彼女が2007年に発表し、評価された同名の短篇作品がもとになっている。
スビーラ(ブレンダ・ワイリム)は、両親や兄弟とケニア東部にあるラム島の漁村に暮らしている。漁師の父親アリ(アブバカル・ムウェンダ)はスビーラをかわいがり、彼女も父親を追い回し、一緒に漁に出ることもしばしばだった。父親は娘に泳ぎを教える約束をしていた。一家はイスラム教徒のコミュニティに属し、母親のムワナ(ナイス・ギシンジ)は、家事をおろそかにする娘を快く思っていなかった。ところがある日、父親と漁に出たスビーラは、泳ぎながら網を調べる父親が、高速で進むモーターボートに激突されるのを小舟の上から目の当たりにする。
父親を亡くしたサビーラは、初潮を迎え、母親に厳しくしつけられるようになった。そんなとき、幼なじみの隣人ヌール(イニャ・シー)に縁談がもちあがる。妻を探していたのは、ナイロビで織物商を営む裕福な家の息子タウフィク(ティラス・パダム)。彼の亡母がラム島の出身で、故郷の女性が息子の妻になることを望んでいた。そこでタウフィクの父親アダム(アリ・ムワンゴラ)が、候補として選んだのがヌールだった。ところが、アダムとタウフィクの父子が、ヌールの家を訪問したとき、テラスに出たタウフィクは、隣の家に住むスビーラの奔放な姿を見て、心を奪われる。結局、タウフィクは父親の反対を押し切り、スビーラを妻にする。
▼ ラヴニート・シッピー・チャダ監督『Subira』(2018)予告
ラム島の漁村からナイロビの裕福な家に嫁いだスビーラは、レストランでの注文の仕方すらわからず、新しい生活にまったく馴染めない。義父のアダムは、なにかと注文をつけ彼女を縛ろうとする。ある日、スビーラは、外出中に偶然、プールで行われている水泳教室を目にし、誰にも告げずに密かに教室に参加し、泳ぎを学びだすが、やがてそれが露見し、ナイロビを逃げ出すことに…。
監督のラヴニート・シッピー・チャダは、若いころに慣習に縛られて辛い思いをしたことがあり、それがスビーラの物語に反映されているという。スビーラが泳ぐことに執着するのは、父親との約束があったからだが、ドラマとしてはそれほど単純ではない。夫のタウフィクはリベラルな人間なので、気持ちをうまく説明できれば理解してくれそうではあるが、それができないのが彼女にとってはなんとももどかしい。
水泳教室をめぐるエピソードはいろいろな意味で興味深い。スビーラには水着がないし、手に入れる方法もわからない。彼女は店に夫を訪ねるふりをして、店にあった反物を黙って持ちだす。それから義父にミシンがないかを訪ねる。彼は亡妻が縫い物が好きだったことを思い出し、彼女が使っていたミシンを提供する。スビーラはそのミシンを使って、全身を覆う水着らしきものを縫い上げ、それを着けて泳ぎを学ぶ。
スビーラが偶然、水泳教室を知ったとき、彼女が見つめていたのは、泳いでいる人ではなく、それなりの高さがある飛び込み台から飛び込む人の姿だった。泳ぎのレッスンをはじめたときも、まだ泳げないのに、インストラクターに飛び込みを催促する。本作のもとになった短篇には、父親の死も結婚もナイロビもなく、ラム島のコミュニティで疎外されるスビーラが桟橋から海に飛び込むところで終わる。そのシーンは自由を表現しているが、本作の場合はもっと複雑な意味があるだろう。
本作には、ベン・ザイトリン監督のアメリカ映画『ハッシュパピー バスタブ島の少女』(2012)を連想させる要素がある。沈みゆく島に暮らす少女ハッシュパピーは、唯一の家族である父親が重い病で死にかけていると知ったとき、不在の母親がいると信じる場所に向かって泳ぎだし、その先にある異界で体験することが彼女にとって通過儀礼となる。本作では、追いつめられたサビーナが、父親が亡くなった海という異界に飛び込むことが、通過儀礼となり、自己を確立した彼女は現実と向き合っていくことになる。