アミタヴ・ゴーシュの長編『飢えた潮』の舞台にもなったシュンドルボンを襲う気候危機:サイクロンの増加や強大化と防壁としてのマングローブ林の減少

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インド出身の作家アミタヴ・ゴーシュが2004年に発表した長編小説『飢えた潮』は、ベンガル・デルタに広がるマングローブ林、シュンドルボンを舞台にしていた。

『大いなる錯乱』アミタヴ・ゴーシュ

● 『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』アミタヴ・ゴーシュ著

ゴーシュが、気候変動を「物語」「歴史」「政治」という観点から掘り下げた2016年の『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』には、その『飢えた潮』を書いたときのことを振り返る場面があり、その部分を読むとシュンドルボンに当時すでに気候変動の兆候が現れていたことがわかる。

「そのころわたしは、シュンドルボンを舞台にした小説を書いていた。シュンドルボン[「美しい森」]とは、[バングラデシュとインドの国境地帯にひろがる]ベンガル・デルタの巨大なマングローブ天然林のことで、そこで水や泥(シルト)の流れを観察していると、通常ならば悠久なる時間(ディープタイム)のなかで展開する地質学的なプロセスが、数週間や数か月の速さで起きているかのように見えてくる。一晩のうちに川岸の一帯が家や人ごとまるまる消えてしまったと思いきや、また別の場所では泥の浅瀬が浮き出てくると数週間後には幅1メートルほどの立派な岸になっていたりする。言うまでもなく、これらのプロセスは、そのほとんどが循環的なものである。だがその時分、つまり21世紀の最初の数年間でさえもすでに、海岸線の後退やそれまで耕地として利用されていた土地への海水の流入のうちに、累積的かつ不可逆的な変化の兆しを見てとることができた」

いまではシュンドルボンは、気候変動の最前線といっていいと思うが、参考のために『飢えた潮』から、主人公のひとり、カワイルカの調査・研究を行っている女性ピヤが、彼女に協力する漁師とともにサイクロンに襲われる場面を二か所ほど抜粋してみたい。ふたりはボートでかなり下流に位置すると思われる(ということはより海に近い)架空の場所ガルジョントラで調査を行っていて、そこでひと晩を過ごした翌朝、水平線の彼方の異変でサイクロンが近づいていることに気づき、限られた時間のなかで対応を迫られる。

『飢えた潮』アミタヴ・ゴーシュ

● 『飢えた潮』アミタヴ・ゴーシュ著

「一刻一刻がじりじりと過ぎていく。空中を飛び回る物体が徐々に大きくなっていく。最初は葉や枝きれ程度だったのに、今では椰子の実や、木そのものがぐるぐる旋回しながら宙を舞っている。島そのもののような巨大ななにかが頭上を飛びさった。複雑に絡みあった地下茎ごと根こそぎ引っこ抜かれたマングローブの木立がまるごと吹っ飛んでいたのだ。暴風の威力がついに全開に達したのだ。(後略)」

「そのとき嵐の音がにわかに重くなり、暴風の轟音の上に、別の咆哮が響いた。瀑布のような重い音。指の間からのぞいてみると、何か壁のようなものが、河下から突進してくる。まるで、一つの町がそのまままるごと押し寄せてくるよう。彼我をつなぐ河は、まるでお誂え向きの進撃路。高くもたげられた壁の頂の前では、丈高い樹々すら小人のようだ。高潮が、海から襲来したのだ。それが彼らに向かって、全てを飲み込みつつ押し寄せていた。目を疑う現実を悟り、ピヤは頭が真っ白になった。これまでは、恐怖を感じる暇などなかったのだ。一瞬一瞬を生き延びようという必死な思いでいっぱいで、この嵐がこれからどうなるかなどと考える余裕もなかった。だが、今は、迫りくる死を前に、それが自分を飲みこむのをただ待つしかない。恐怖で指先の力が抜けおちた。(後略)」

それを踏まえ、現在のシュンドルボンに話を進めたい。以下の2本の動画では、気候変動や人間の介入がシュンドルボンに及ぼしている影響を、Part1の“サイクロン”とPart2の“マングローブ”に分けて報告している。まずはサイクロンから。

▼ なぜシュンドルボンは頻繁にサイクロンに襲われるのか

この動画によれば、シュンドルボンは、小川や運河に囲まれた102の島からなり、そのうちの54の島に約450万人が住んでいる。彼らの70%は貧困線以下で暮らしているという。過去20年間でシュンドルボンは13のサイクロンによって破壊された。

冒頭ではまず、2019年から2021年にかけてシュンドルボンを襲ったサイクロンについて説明される。2019年11月9日に非常に強いサイクロン“ブルブル”が襲来し、数千人が家を失った。新聞記事の見出しは、52万戸近くが被害にあったと伝えている。その6か月後、2020年5月21日、1942年以降で、インドを襲った最も破壊的なサイクロン“アンファン”が、かろうじて回復しつつあったシュンドルボンを直撃した。さらに2021年5月26日、非常に強いサイクロン“ヤース”が襲来し、予想外に大きな被害が出た。

この15年間にベンガル湾で発生したサイクロンのデータによれば、これまでは2~3年に1度の割合で発生していたものが、過去3年では5件に急増し、しかも強大化している。気候変動に関する政府間パネルの最新報告書によれば、インド洋はどの海洋よりも早く温暖化が進んでいるという。ベンガル湾の表面温度は、サイクロン発生直前に34度に達したと報告されている。

さらに、気候科学者ロキシー・マシュー・コールが、急増するサイクロンの特徴とそれががもたらす甚大な被害について説明している。まず、サイクロンの急速な発達。2020年5月のサイクロン“アンファン”は、わずか18時間のうちにカテゴリー1からカテゴリー5へと発達した。予報士でもこの短時間の急速な激化の兆候を早い段階で察知することは難しい。現場でも災害対策の準備ができていない。2021年5月のサイクロン“ヤース”の場合には、複合的な要因が被害を拡大した。海洋の表面温度が上昇すると、その熱で水の体積が膨張し、すでに上昇している海面がさらに上昇し、ヤースの渦巻きが海水を押し上げ、最大で高さ9メートルを超える津波のような高潮を引き起こした。海水が内陸に少なくとも10キロメートル侵入し、住宅や道路、農場が水没した。高潮は、雨による洪水とは違い、塩害や塩類化の影響が出るおそれがある。

▼ マングローブ林は沈みゆくシュンドルボンをどのように守るのか

シュンドルボンの世界最大のマングローブ林は、かつては最も恐ろしい嵐にも耐えることができた。健全なマングローブ林は、カテゴリー5の嵐の影響を、カテゴリー3程度の強さまで軽減することができる。平均樹高が6~10メートルのマングローブ林は、高潮を60%程度にまで抑えられる。しかし、シュンドルボンでは、宅地などを造成するためにマングローブ林の大規模な伐採が行われている。この動画では、その例として、シュンドルボンでも人口密度の高いサーガル島とゴラマラ島を挙げている。これらの島々は、マングローブ林が減少しているため、海面が上昇するにつれて土壌が浸食され、過去30年の間に驚くべき速度で陸地を失いつつあるという。

▼ サーガル島とゴラマラ島(サーガル島の北に位置する小さな島がゴラマラ島)

そしてもうひとつ指摘されているのが、塩分濃度の上昇だ。それについては、以前の記事「『海がやってくる』の著者エリザベス・ラッシュが海面上昇にとりつかれたきっかけはバングラデシュ取材、その沿岸地域では塩害が農業や住民の健康に深刻な影響を及ぼしていた」でも触れている。この動画では、上流に建造されたダムによって主流と支流のつながりが遮断され、淡水の流れが減少しているところに、海面上昇によって海水が上流に侵入するため、日に日に塩分濃度が高くなり、生活や農業に支障をきたし、住民の80パーセント以上の食料安全保障が危機にさらされているという。

シュンドルボンの住人たちは、気候難民になりつつあるが、一方で多くの住人たちがマングローブの植林を行っている。この動画では植林についてごくわずかしか触れていないが、その成果については別記事で取り上げられればと思う。

《参照/引用文献》
● 『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』エリザベス・ラッシュ著、佐々木夏子訳(河出書房新社、2021年)
● 『大いなる錯乱――気候変動と<思考しえぬもの>』アミタヴ・ゴーシュ著、三原芳秋・井沼香保里訳(以分社、2022年)
● 『飢えた潮』アミタヴ・ゴーシュ著、岩堀兼一郎訳(未知谷、2023年)




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