社会科学の視点でとらえたHIVから自然科学の視点でとらえたHIVへ――ランディ・シルツ著『そしてエイズは蔓延した』からデビッド・クアメン著『スピルオーバー』へ その1

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アメリカのネイチャー/サイエンス・ライティングを代表するジャーナリスト/作家デビッド・クアメンが2012年に発表した『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』の題材になっているのは、人獣共通感染症(zoonosis)だ。クアメンは冒頭でそれを以下のように説明している。

『スピルオーバー』デビッド・クアメン著

「人獣共通感染症(ズーノーシス)とは、人間に感染する動物の伝染病のことだ。こうした病気はたぶん想像以上に多い。エイズ(後天性免疫不全症候群)もその一つだし、インフルエンザの一群もそうだ。それらをまとめてじっくり眺めてみると、昔ながらのダーウィン的真理(ダーウィンの真理の中でも最も暗く、しかもよく知られているはずなのに忘れられがちな真理)に改めて突き当たる。つまり人類もまた動物の一種であり、その起源にせよ進化にせよ、病気にせよ健康にせよ、他の動物と不可分の関係にあるという真理だ。オーストラリアで発生した比較的知名度の低い感染症を手始めに、様々な人獣共通感染症を個別にじっくりと見ていくことで、疫病も含め、全てのものは必ずどこかからやって来るのだということをしかと確かめたい」

目次を見ればわかるように、本書では、ヘンドラ、エボラ、マラリア、SARS、Q熱、オウム病、ライム病、ヘルペスB、ニパ、マールブルグ、HIV、そして新型コロナ(補章)が取り上げられている。

そして、そのなかでも特に強い印象を残すのが、HIVを扱った第Ⅷ章だ。他の章はだいたい40~50ページなのに対して、このⅧ章には100ページ以上を費やしている。その内容は、エイズも人獣共通感染症のひとつであるからHIVを扱うというよりは、HIVだけでなく人獣共通感染症そのものについて考えさせるような独立した物語になっている。

『The Chimp and the River』 David Quammen

著者のクアメンは、この『スピルオーバー~』を出した3年後の2015年に、この章を独立させ、「チンパンジーと川」という章のタイトルをそのまま本のタイトルにした『The Chimp and the River』を出している。彼自身もこの章にはそうするだけの意味があると考えたのだろう。

ということで、ここでは、取り上げるのは『スピルオーバー~』だが、注目するのは第Ⅷ章だけになる。その冒頭は以下のような記述ではじまる。

「エイズ(後天性免疫不全症候群)のパンデミックについて、私たちが知った気になっている始まりには諸説ある。だが、発端は人獣共通感染症(ズーノーシス)の一つの異種間伝播(スピルオーバー)にあるとするテーマには、そのほとんどが触れてさえいない」

この導入部でクアメンが何度となく参照/引用しているのが、「サンフランシスコ・クロニクル」紙の記者だったランディ・シルツが、80年代アメリカでエイズが蔓延した背景を克明に描き出した『そしてエイズは蔓延した』だ。

『そしてエイズは蔓延した(上)』ランディ・シルツ著

そのなかでも特にこだわっているのが、「患者ゼロ号」として有名になった若いカナダ人の客室乗務員、ガエタン・デュガのことだ。クアメンはまず『そしてエイズは蔓延した』を引用して、同性愛者として優雅な生活を送るデュガが、非難に値するほど無頓着に感染を広げる役割を果たしたことに言及する。

そして、そんなデュガにまつわるシルツの表現が誤解を招く可能性を指摘する。80年代半ば、米疾病対策センター(CDC)の疫学者チームは、エイズ患者やその友人たちから情報を集め、計40人の事例から彼らの性的な関係を示す相関図を作成した。その図は40枚の円盤を相互に連結させたもので、ネットワークの中心には「0」と書かれた円盤が置かれていた。

「名前を伏せられていたが、『0』と書かれた円盤の患者はガエタン・デュガだった。ランディ・シルツは前掲書でこの単なる数字のゼロを、もっとキャッチーに『患者ゼロ号』と言い換えている。だが、この『ゼロ』という言葉が見誤らせること、『0』という数字が無視していること、そして相関図の中央というこの円盤の位置が見過ごさせることがある。それは、ガエタン・デュガ自身、自分でエイズの原因ウイルスをつくり出したわけではないということだ。全てのものはどこかからやって来る。彼もまた誰かから、おそらく性行為を通じて、感染したのだ。そして、それはアフリカでもハイチでもなく彼の拠点に近いどこかだ。ガエタン・デュガがまだ性体験のない子どもだった頃、ヒト免疫不全ウイルス一型(HIV-1)がすでに北米に到達していたことを示す証拠が現在ではある」

クアメンは研究者たちと並走するようにエイズの起源に迫っていく。彼らの関心はアフリカに向かい、クアメンが『The Chimp and the River』について語る以下の動画でも触れられているように、ベルギー領コンゴと独立後のDRコンゴで1959年と1960年に採取されたサンプルの発見によって、起源を1908年頃までさかのぼれることがわかる。そこでウイルスを保有するチンパンジーと人間の血なまぐさい接触が起こった。

クアメンは、エイズの起源に迫っていく間にも、「ガエタン・デュガが真の意味での『患者ゼロ号』ではなかったことも分かっている」とか、「ガエタン・デュガのことは忘れよう」といった記述を盛り込むため、起源だけが問題のように見えかねないが、『そしてエイズは蔓延した』を読んだことがあれば、違った意味で『そしてエイズは蔓延した』と『スピルオーバー~』の対比が興味深く思えるのではないか。共通する題材を扱う2冊からはまったく異なる風景が浮かび上がってくるが、簡単にいえば、シルツが『そしてエイズは蔓延した』をまとめたときには、社会科学的な視点が重要な意味をもっていたが、いまでは自然科学的な視点がはるかに重要になっているということになる。

社会科学の視点でとらえたHIVから自然科学の視点でとらえたHIVへ――ランディ・シルツ著『そしてエイズは蔓延した』からデビッド・クアメン著『スピルオーバー』へ その2」につづく。

《参照/引用文献》
● 『スピルオーバー――ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』デビッド・クアメン 甘糟智子訳(明石書店、2021年)
● 『そしてエイズは蔓延した』ランディ・シルツ 曽田能宗訳(草思社、1991年)





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